2023年1月26日木曜日

老人は若くなった

 





設定年齢は70歳と67歳







乃木大将、57歳





私も今年で67歳、自分では若いと思っていても、現実は老人世代である。それでも子供の頃に比べると、今の老人は若くなったなあと思う。昔であれば、70歳になれば、十分に老人で、ヨボヨボの腰の曲がったイメージである。実際、映画「楢山節考」で老母を山に捨てるシーンがあったが、確か主演の坂本スミ子は、息子の緒方拳の背中におぶされて山に捨てられていくのが70歳だったと思う。実際に70歳になれば山に捨てられるようなことはなかったにしろ、昔は70歳という年齢は十分に老いた存在だった。

 

日露戦争の英雄、乃木希典が明治天皇の崩御に殉じたのが62歳と聞くと、驚く人も多いと思うし、伊藤博文が朝鮮で暗殺されたのが68歳である。また小津安二郎の名作、「東京物語」の登場人物、笠智衆と東山千栄子の役の設定年齢が、それぞれ70歳と67歳となっている。また同じく小津安二郎のカラー映画、「太刀魚の味」に登場する笠智衆の恩師、東野英次郎の元教師の設定年齢が72歳である。小津安二郎自身、亡くなったが60歳で、今日の感覚からすれば、どれも10歳は老けている。東京物語の有名なシーン、熱海の海岸で笠智衆と東山千栄子が堤防に腰掛けて話すシーンがあるが、今の感覚で言えば、舘ひろしと大地真央が座って話しているようなものである。舘ひろしが父親、大地真央が母親であれば、全く違った映画になっていたであろう。

 

さらにいうと、「男はつらいよ 奮闘編」(1971)にトラさんの母親役としてミヤコ蝶々が登場するが、その時の年齢が51歳、今の感覚で言えば、酒井法子がトラさんの母親、とても無理である。また日本映画の老け役と言えば、飯田蝶子の名が出てくるが、彼女は75歳で亡くなり、多くの映画、たとえば若大将シリーズでばあさん役として出ていたのが1964年からで、年齢でいうと67歳であった。80歳くらいの役であろう。美空ひばりが亡くなったのが52歳、あの圧倒的な貫禄は今の52歳にはない。

 

こうしたことから、令和の年寄りは、昭和の年寄りより10歳は若いという仮説も当てはまりそうだが、どうであろうか。ただ乃木将軍の晩年の写真、上半身裸の写真を見ても、立派な体つきであるし、髭を剃り、髪の毛を黒に染めれば、それほど年寄りでもない。同様に飯田蝶子の写真を見ても、確かに老け役の化粧をしているが、肌は綺麗で、シワも少なく、今風の明るい洋服を着れば、もっと若くなる。

 

子供の頃、参観日というと母親が着飾って学校に来ていたが、ほとんどの母親が20から30歳であるが、結構老けていた。これは洋服、着物が地味なものを着ていたからで、母親そのものが老けていたわけではない。つまり、昔の人が老けていたのは、実際の体が老けていたのではなく、老けた化粧、服などがしていたからである。小学校の時、母親の友達で、戦後、ファッションモデルをしていた人がいた。赤や青の原色の綺麗な洋服を颯爽と着ていたが、当時の30歳代にしては、非常に目立ち、周囲から浮いた存在であった。昭和30年代の30歳代と言えば、茶色や灰色の服が主体であり、化粧も派手なものではなかった。こうした感覚が少しずつ崩れだしたのが、1980年代で、ヒッピー、ロック、ツイッギーなどの文化を経験した若者が結婚し、子供を作った頃から、30歳で原色の服を着る抵抗がなくなり、1990年代になると50歳代で娘の服を着る母親も珍しくなくなり、今ではユニクロやZARAなどの店舗に行くと、20歳の若者が買う服と70歳の人が買う服が同じで、年齢による区分がなくなっている。

 

さらにいうと、昭和の時代まで、子供、若者、中年、老人という大きな枠組みがあり、服装から曲の好み、考え方も大きく違っていたが、今ではこうした枠組みは消失している。大学生のころ、若者はロック、フォーク、中年は演歌、老人は民謡、浪曲という括りがあり、若者が民謡や浪曲を聞くことはほとんどなかったし、逆に老人がロックを聞くことはなかった。老人と若者がディープパープルについて語るというのが今の時代であり、こうしたノンエイジ(nonage)が主流となっている。一方、老人世代の若者化により、私も含めて周囲に威厳、貫禄のある大人という人がいなくなった。もはや62歳で乃木大将の風格を持つ人を見ることはない。

 

 

2023年1月22日日曜日

外科的矯正の術前矯正について
















今日、外科的矯正の適用はかなり広がって、適用症例も増えている。昔は、通常の矯正治療だけでは治らないケースが、外科的矯正の適用とされたが、今日では、患者の顔貌への要求、より安定した咬合のために、外科的矯正を選択されることが多くなった。

外科的矯正の中心、下顎前突の症例でも、正常被蓋で、術前矯正でわざわざ反対咬合にして手術するケースも増えている。また上顎前突の症例でも、顎間関係が私の場合、ANB10度を超える症例では、外科的矯正も洗濯に入れており、実際にここ数年、上顎前突の外科的矯正の症例も増えている。逆に開咬については、アンカースクリューやマルチループテクニックで治る症例も多いが、下顎骨が後方回転した上顎前突の開咬では上下同時移動術、上顎の上方への移動と、下顎の回転、オトガイ形成術など複雑な手術を要する。またA点が前方にある上顎前突では、歯槽骨骨切り術を行い、良好な結果を得ることができる。

 こうしたこともあり、最近では年間20例以上の外科的矯正の患者の治療を行い、これまで27年間ではの延べ400名以上の外科的矯正の患者を治療してきた。

ただ術前矯正に関しては、教育を受けた大学の考えによるのか、大きく分けて二つの考えがある。一つは咬合を重視する考えで、大臼歯関係はI級が理想であり、外科的矯正の目的として前歯の被蓋、とI級の大臼歯関係とする。そのため第三大臼歯以外は非抜歯による術前矯正を行う。結果、上顎前歯のデンタルコンペンテーションを十分に解消できず、下顎骨の後退量も少なく、オトガイの前突感が残る。もう一つは、顔貌の改善を主として、フェイシャルダイアグラムなどから理想的な上下顎関係になるには、顎をどのように動かすかというところから考える。たとえば、下顎を後ろに10mm下げるのは理想的な願望であれば、上顎第一小臼歯を抜歯し、上顎切歯を中に入れてから手術をする。こちらの方ではオトガイの前突感が残ることが多い。

私が教育を受けた鹿児島大学では、徹底して顔貌中心の治療計画を鍛えられた。もちろんいろんな要因で、十分な顔貌の改善ができない場合もあるが、それでも手術法の選択、たとえば、上顎骨を回転させて下顎骨の後退量を稼ぐなどの手段を用いた。

仙台の菅原準二先生は、ずいぶん以前から術前矯正をしないSurgery Firstの治療法を提唱してきた。よく知った先生であるが、当初この治療法については批判的であった。というのも鹿児島大学にいた頃だから30年以上前に、黒江和斗先生を中心に、術前矯正をほとんどしないで外科矯正をする治療をしたことがあった。一番困ったのは移動量をどうするかで、かなり適当にした記憶があり、結果にムラがあった。ところが菅原先生の方法では積極的に矯正用アンカースクリューを使うことで、ほぼ計画的に仕上がるようで、期間の短縮にもつながっている。ただこれも移動量を決めるのはかなり熟練を要するのか、日本ではそれほど広がっていない。

個人的には、術前矯正で、なかなか治療が進まない患者がいる。上顎小臼歯を抜歯して、マルチブラケット装置をつけて上顎切歯を舌側に動かそうと思っても動かず、中には逆に唇側に移動することもある。グラグラした前歯を舌で押しているのである。こうした症例では小臼歯の抜歯空隙が大臼歯の近心移動で閉鎖するために、全く上顎前突と同様のフォースシテムを組むことになる。あるいは大臼歯ががっちりかんでいる症例では、上下歯列のコーディネーションのために上顎歯列を狭くしようと思っても、進まない場合が多い。こうした症例では、術前矯正で治すよりは術後矯正で治す方が圧倒的に早い。Surgery Firstの利点としては、こうした咬合力、舌や口唇の習癖を考慮しなくて済む、逆に術後矯正で利用できることが挙げられる。

 


 


2023年1月20日金曜日

老人の趣味

 

               同級生です。楽しそうです



この歳になって、昔やっていればと思うことが浮かぶ。今から始めても遅くはないかもしれないが、それでも昔、若い頃にやっていれば、その後の人生ももっと楽しかったと思うものがある。

 

1.音楽

初めての楽器は、小学4年生頃のリコーダーで、これは結構ハマって、一日中吹いていた。小学6年生の頃、姉にギターを習って“禁じられた遊び”を友達と一緒に伴奏して、クラスの皆の前で発表したことがあった。ところが中学、高校、大学とレコードで音楽を聴くことは合っても、楽器を触ることはなかった。

1970年代は誰もがギターを始めた時代があった。土井まさるの“TV ジョッキー”という番組の奇人変人コーナーの優勝者には白いギターが与えられ、みんなが欲しがったような時代であった。フォーク、ロックの全盛期で、フォークギター、エレキギターに若者は群がり、高校の文化祭となると学年でも3組くらいのバンドが演奏した。文化祭には女子も呼べるために、モテようとバンド作った友人もいるが、そうした不純な目的であっても、いまだに楽器を演奏し、バンドを組んでいる。おそらくは一時はギターから遠ざったこともあったろうが、中年になって、急にギターを始め、バンドを作ったのであろう。またアマチュアのこうしたバンドが活動する機会や場所も多くなった。 

家内は、幼稚園から小学校の低学年くらいまでピアノをしていた。2、3年くらいしかピアノを習っていない割には才能があるのか、結婚してからも簡単な曲は楽譜を見て弾いていた。娘には数年ピアノを習わしたが、全く上達しないのを見ると、家内はピアノの才能があるのではと、数年前に電子ピアノを購入し、今はヤマハの教室で習っている。子供の頃、数年間学んだだけで、この歳になってショパンが弾けるのだから、これは羨ましい。

私も20年前には、ハーモニカのトゥーツ・シールマンスに憧れ、ジャズハープに挑戦したことあった。もちろんハーモニカはトゥーツと同じホーナー社のクロマティックハープを買った。トゥーツが監修したジャズハープという音楽教則本を購入して、練習したが、いきなりジャズピアノに挑戦したのが無謀だったのか、練習時間が不足したいたのか、二台のクロマティックハープは引き出しにしまわれたままである。つい数年前も、ヤマハのヴェノーヴァというサックスのような楽器が出たので、すぐに購入してサックスの練習をし、さらに調子に乗って、ローランドのエアロフォンという楽器を購入した。買った時は、毎日にように吹いていたが、結局、これも半年ほどで飽きて、使っていない。

 

2.

 小学校の頃に、絵画コンクールで何度か賞をもらったこともあるし、中学、高校の成績も体育と美術だけは常に90点以上であった。ただこれも本格的に習ったことはなく、子供が幼稚園に行っていたときには、BSアニメの読者コーナーに子供に絵の指導をして(修正を加えて)2回ほど載ったことがあったし、セーラームーンの絵を子供の友人にあげると、私も私もと十枚以上のセーラームーンの着色絵を描き、人気者になったこともある。10年前にお袋がこちらに来たときに、日本画のテクニックをほんの1時間ほど習い、必要な筆やペリカンの固形水彩を買い、これも半年くらいは絵を描いていた時期があったが、続かない。3年ほど前には、写真を撮って、それを拡大コピーして、なぞる方法を見つけ、弘前市内の建物を写真に撮り、それを元に絵にした。これも10枚ほど描くと飽きてしまって、描かなくなった。どうも飽きっぽいのと、基礎的な段階でギブアップしてしまう。せめて20, 30歳までに教室に通い基礎を学んでいれば、もう少し描けたと思う。

 

3.オートバイ

大学生の頃、無性にバイクが欲しくなった。今はあまりバイクに乗る若者も少なくなったが、私が大学生の1970-1980年代は原付バイクの全盛時であった。ヤマハのパッソーラなどのスクーターが出たのもこの頃であった。友人が、ホンダの原付バイクに乗っていたので、何度か、大学校内で、アクセルに仕方など習って乗ったことがあるが、なかなか免許をとる時間もなく、そのままになってしまった。高校生、大学生の時に自動二輪の免許をとった友人は、今でも仲間を作ってツーリングをしている。高くて買えなかった、ハーレダビットソンなども何とか買えるようになって、嬉しそうにしている。私の場合は、山の方にいたときは、バイクが欲しくてたまらなかったが、歯学部近くの平地に住むようになると、ロードバイクを買って、そればかり乗っていて、バイクからは遠かった。今でこそ、バイクより自転車、ロードバイクの方が人気があるが、1980年ころ、ロードバイクなど乗っている人はわずかで、さらにレーシングキャプ、シャツ、パンツ、靴と本格的な格好で自転車に乗っている人は、自転車部くらいで仙台の町でもほとんど見かけなかった。仙台から松島まで、往復でだいたい60kmを走り、帰りには一番町の喫茶店モーツアルトに行っていたが、その格好で店に入ると驚かれた。今では痔や体力、交通事故の心配などでロードバイクには乗れない。

 

4.ゴルフ

ゴルフを始めたのは、鹿児島大学歯学部の矯正歯科に入局してからである。同級生、先輩でゴルフをやる人が多かったため、自然とゴルフ道具を買い、練習場にも通い、月に1度くらいの割でコースに行っていた。ところが新人、3名のうち、他の先生が早々と100くらいのスコアになるのに、わたしだけがいつも120くらいで全く伸びない。その頃、結婚もし、子供もできたので、自然にゴルフもやらなくなり、今に至る。他の先生は今でもずっとゴルフをやっていて、ゴルフは老人になってもやれるスポーツの一つである。まあこれは才能がなく辞めたものなので、それほど悔いはないし、復帰しようとも思わない。

 

年齢がいってもやれるものは、限られてくる。体力を要するスポーツは、90歳になってもマスターズ陸上に出ている人もいるが例外で、せいぜい、ゴルフか卓球くらいか。それ以外は文化系のものが主体となる。音楽、絵、文学(俳句、短歌含む)、書道などが思いつく。さらに読書や映画を見る習慣も若いうちに育まれる。私の場合もこうした習慣が大学生の時にできたことが今でも役立っている。とりわけ音楽と絵は才能も関係するので、合う合わないは一概には言えないものの、若い時に熱中してやっておけば、老人になって楽しいことが増えそうである。子供に色々な教室を通わせる親がいるが、ジャンルを問わず、好きなことを習わせるのも良いかもしれない。私の場合も子供の頃の習い事は、絵、習字、そろばん、水泳、好きだったのはプラモデル作り、読書、少年野球、漫画、アイススケート、ローラスケート、天文観測、スロットカー、切手、その後、中学になっては、サッカー、バスケット、登山、映画、音楽鑑賞(ロック)、旅行、飛行機(航空ファンの購読)、大学生になってからはサイクリング、ハーモニカ、スキー、海外旅行、カメラ、矯正科に入ってからは、ゴルフ、スキューバーダイビング、ヨット、開業してからは、英語、ブログ、郷土史、本の出版、北欧陶器、家具、日本画収集および研究(掛け軸)、キリムおよびラグなどで、思い出すと結構な数の趣味を体験しているが、興味があっても長続きしていないことがわかる。今のところ一番長く続いているのは、漫画で、小学校一年の少年マガジンから60年、読み続けている。

 

老人になって暇ができたからといって、何かできるのものではなく、それまでやってきたことの延長に何かをやるのだろう。そうした意味では、若いうちにいろんなことにチャレンジし、特に音楽関係は大きな武器となるので仲間とバンドなど作って熱中した方が良い。

2023年1月15日日曜日

最近笑ったこと

 





昨日、「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか」(みうらじゅん、リリー・フランキー、新潮社)を読んだ。くだらない話の連発で楽しいが、その中でもとりわけ面白く腹を抱えて笑った話があるので紹介したい。

 

 

リリー、「そうですね。オレ昔、ピエール瀧とかと海に遊びいくと、写真をよく撮ってたんですね。で、後日それを家の中でスライド映写機で壁に映して、BGMにル・クプルの“ひだまりの詩”とかかけると、波打ち際で大ハシャギしている瀧が、なぜか故人っぽく見えるんですよね。おどけている人間って、そういうとき、ほんと哀しく見える」

みうら、「“太陽にほえろ”でも、生前に陽気な刑事ほど殉職するのが一番哀しかったもんね」

 

家内に本を見せても全く面白くないという。おそらくこの文章を面白いという人は少ないだろうし、仮にいれば私とお友達になれる人であろう。

 

本を読んで、泣いたり、笑ったりるのは、ある意味、難しい。というのは情報媒体が文字のみで、それを理解して悲しむ、喜ぶためには、次のステップが必要となる。それを映像として再現する能力である。子供の頃、絵本の読み聞かせを経験した人は多いだろう。子供たちは読んでいる内容を絵本の中の絵に投影して理解していく。一般の本はそうした行為を脳内に再現しなくてはいけない。映画や漫画は、絵本と同じように、脳内で映像を再現する行為が必要なく、より理解しやすい。

 

話に戻るが、リリ・フランキーさんの話を理解するには、まずピエール瀧さんのことが頭に浮かばなければいけない。彼のでた映画やテレビの演技や表情、さらに最近の薬物事件後の神妙な表情などもここで映像として出てくる。そしてスライド映写機、これも家の中で見ているので、コダックやツアイスの何十枚も連続して見られる高級映写機ではなく、キャビンの小型映写機に横型の金属の枠にスライドに入れて、暗い部屋の壁に映った小さな画面で見ている。一枚ずつカチ、カチと動かす音が聞こえる。今の人はスライド自体、わからないかもしれないが。

 

そして「ひだまりの詩」が頭の中に響かなければ、まず笑えない。失恋の悲しい歌ではあるが、別に死を連想させる曲ではない。ただピエール瀧、海ではしゃぐ、スライドを家で見る、ひだまりの詩、これらの要素から、ピエール瀧が死んで、それを思い出す設定を勝手に自分の中に作るが、ふとピエール瀧は死んでないと気づく、これがおかしいのである。こうして説明すると全く面白くもないが、家のソファに寝っ転がって、この本を読んでいてこの箇所を読むと瞬時にこうした音楽と映像がわいて大笑いするのである。これは落語の笑いに通じる。古今亭志ん生の落語を聞いていると、その登場人物の表情がイキイキとしてあたかもそこにいるような感じがするが、本を読む場合は、声を出すわけではないので、全て脳内で映像を作っていくので、より高度であろう。おそらく読書以上により高度の頭の働きは、おそらく絵画を見て泣く、あるいはもっと難しいのは笑うことくらいか。絵画には当たり前だが、絵以外の情報は全くない。強いてあげると作品の説明を読んで、画家がその絵を描いて心象を推しはかりくらいか。じっと見ていると泣ける絵があるかもしれないが、私の場合、まだ絵を見て泣いたことはない。

 

この本では、リリーさんとみうらさんの掛け合い漫才のような会話が収められていて、しゃべっては笑うという繰り返しであるが、これができる人は案外少ないと思う。まず年齢、経験が近くなければ、話題が理解できないし、こうした冗談のキャッチボールにもお互い長けているのだろう。さらにいうとお互い尊敬し合っていて、その生き方や考え方の近いのだろう。他に最近、大笑いしたのは、年末に見た「水曜日のダウンタウン」でクロちゃんの恋の成就に対する“みちょぱ”さんの反応で、これは心底、気持ち悪がっている様子に大笑いした。ただ昔と違い最近は、ゴールデンタイム=子供用アニメという鉄板がなくなり、子供のみる番組がほとんどなくなった。ひょっとすると5、6歳の子供も親と一緒にこうした番組を見ていいて、親が人の恋の成就を大笑いするのは教育上良くないのかもしれない。


2023年1月12日木曜日

青森県のこれからの観光 アグリツーリズム 民泊

 


これからの日本の観光の大きな柱は、田舎の景色や環境を満喫するアグリツーリズムであろう。ドイツ、イギリス、フランスなどでは長期休暇を利用して農村部に出かけ、自然を楽しむアグリツーリズムが盛んである。本格的な料理が出て、宿泊設備も整ったホテルのようなところから、一般家庭に泊まる民泊のようにものまでいろんなタイプがある。都会に疲れた人々はストレスを解放し、住民との交流ができる、こうしたツーリズムに憧れ、人気がある。友人の夫婦もイタリアを自転車で周り、村村の小さな宿や民泊を楽しんだ。ホテルのレストランで食べられないような家庭食と地元のワインを堪能でき、思い出の深い旅になったようだ。

 

旅行者にとっては、観光地に行って、美しい景色を見たり、郷土料理を食べたりするのは楽しいことであるが、それ以上に思い出に残るのが、地元の人々との交流である。以前、松本市を探索して、疲れて椅子に座っていると、地元のおじさんが地図片手に近場の隠れた観光地を説明してくれた。どこに行ったか忘れたが、こういうちょっとした交流が記憶に残る。ましては、地元の実際の家に泊まり、そこの家庭料理を食べ、あるいは農作業に一部でも手伝えれば、大きな思い出になることは間違いない。ハワイから来た観光客が私の家に泊まり、夜はきりたんぽ鍋を食べ、日本酒で酔い、翌日は積もった雪片付けを手伝う。こうした経験は通常の旅行では得難いもので、ましては宿泊、食費は安ければ、利用したい観光客は多いと思う。

 

海外に行くと、日本の風土は本当に美しいと思う。特にこれほど四季がはっきりしているところは少なく、また農村部の景色も美しい。青森県でも、台湾の中学生を農村部に招いて、一種の修学旅行のようなイベントをしているが、台湾の中学生にとっては、東京や京都の方が楽しいだろう。むしろそうしたところに飽きた20歳以上の方には日本の農村部の家に泊まれる旅行は受けると思う。先日、仙台に行くために奥羽本線で弘前から新青森に電車で行った。二人の若いカップルが大きな旅行カバンを持って電車に乗っていた。おそらく青森空港から弘前駅にバスで来て、そのまま電車に乗ったのであろう。冬の青森に初めて来たのだろう。北常盤駅で降りたのだが、電車のドアが開き、雪にホームに降りた瞬間、「やばい」と叫んでいた。あまりの田舎と雪の多さ、寒さが想像以上だったのだろう。どこかでしばらくカップルで働くのであろうが、この最初の体験は忘れられないであろう。

 

最近、インバウンド向けの体験型観光が叫ばれていて、忍者の扮装をしたり、寿司を作ったりなどの体験に人気があるが、何といってもこうした作られた体験より実際の現地での体験が圧倒的に強い。タイやベトナムなどの人々は雪など見たことはなく、周り中が雪だらけ、朝起きると30cmの雪が積もり、それをスコップで雪かきをする、そんな体験は忍者の扮装をするより、よほど強烈な体験である。また地元の祭りに製作から直接参加する体験も面白く、例えば、弘前ではねぷた祭りがあり、至る所で町内の有志が集まり、ねぶたを作っている。外国人の参加も大歓迎で、製作から参加すれば、祭り後の飲み会にも参加でき、それは何よりもの思い出となろう。

 

こうした点では、青森県は実に観光資源の多いところであり、工夫次第では世界でも有数のアグリツーリズム、民泊の場所になる可能性がある。ただ大きな問題は、人見知りする県民性で、外国人観光客を家に迎える、世話をする人は少ない。アメリカの民泊の主体は、引退した夫婦が小遣い稼ぎに空いている部屋を民泊として貸しているが、青森県でも子供が東京に行って部屋が余っている家はいくらでもいて、やろうとすればできるが、見ず知らずの観光客に自宅を宿として提供するかとなると厳しい。それでも民泊の宿泊先を紹介するサイト、airbnbを見ると、弘前周辺で12軒あり、数年前まで2軒しかなかっただけで、急激に増えたようだ。ただこうした民泊については、あまりマスコミや弘前市の広報でも取り上げられず、市民への情報は少ない。利点、欠点も含めて、もう少し地元の新聞やテレビ、あるいは市の方でも取り上げてもらえば、さらにやってみようかという人が現れるかもしれない。実際、昔の鯵ヶ沢プリンスホテル、今はシンガポールの会社の傘下となったロックウッド・ホテルに、正月、泊まった知人に聞くと、宿泊者の30%以上がオーストラリアなどから来た外国人スキー客で、驚いたと言っていた。青森県にはスキー、温泉、雪、りんご、白神世界遺産、祭り、桜など、観光資源が多く、最初に東京、京都観光に行った観光客が次にリピーターとして行きたい要素が多く、かなり期待できる。



2023年1月6日金曜日

沢木耕太郎著「天路の旅人」




沢木耕太郎さんの新著「天路の旅人」を読んだ。戦前、中国西北部、西域からチベット、インドに密偵として踏破した西川一三のことを書いている。ノンフィクションというが、西川の「秘境西域八年の潜行」を下敷きに、新たに発見された修正前の元原稿と西川へのインタビューを補足して再構築した作品で、ある意味、沢木さんと西川一さんの共著といってもよい。

 

まず何より驚いたのは、巻末に載せられた西川の行動記録である。実際に徒歩を中心に行動したのは、内蒙古の張家口(北京の北西)から、寧夏省、甘粛省を通って、青海省、チベット、そしてインドに至る。途中、一面、草木もないゴビ砂漠や4000mを超えるヒマラヤなど、困難な移動で、物資の運搬には、砂漠ではラクダ、チベットではヤクと変え、おそらく5000kmの距離をほぼ徒歩だけで走破した。よく考えれば、シルクロードでの交易路は全長6400km以上であり、人々は古来、この距離を何度も往復した。

 

ニホンザルの移動距離は通常、数キロと言われ、ゴリラ、チンパンジーなどの霊長類でも、ヒトのように数千キロの歩行をすることはできない。馬やラクダは比較的長距離の移動ができる動物であるが、これらの動物でもヒマラヤの高い山、谷を越えるのは難しく、ヒトほどあらゆる環境下で移動できる動物はいない。アフリカで生まれたホモ・サピエンスが世界に脱出したのがおよそ20万年前。もちろん歩いてアフリカからヨーロッパに、そしてアジアに出て行った。数千キロを自由に歩ける能力を持つ動物はおらず、これが人類の最も大きな能力である。

 

大型犬であれば、数千キロを歩くことができるかもしれないが、生きて、子孫を産んでいかなければ、生命体として存続できず、寿命が10年足らずの動物ではそうしたことができないし、また4本足では自由に食物を摂ることもできない。エスキモー犬はソリを引っ張り数千キロの旅行をすることができるが、自分の意思で数千キロ移動しようとは思わないだろうし、旅行中、ヒトが犬に食事を与えないと無理であろう。

 

こうして見ると、ヒトをヒトたらしめている一番原始的で根源的なものは、歩くということになる。空を飛べない鳥は鳥でないように、歩かないヒトはヒトではないと言ってもよかろう。ヒトの構造は、猿やゴリラより長い距離を歩くのに優れた構造になっており、そうした方向に進化したと思われる。猿はヒトより木登りはうまいかもしれないが、ドーバー海峡を横断できないし、エベレストを登頂できない。何より数千キロの道のりを歩くことは無理であろう。あらゆるところを移動できる能力がある地球上の唯一の動物が、人間なのだろう。そうしてヒトは世界中に広まり、地球上で一番数が多い、絶対的な支配者となったのだろう。そしてその延長上に船を作って陸と陸とを渡り、さらに馬車、自動車、ロケットなどの移動手段を発明していった。

 

この本を読むと、ヒトには旅をしたいという欲求が本能としてあるのではなかろうか。見知らぬ土地に行きたい、美しい景色を見たい、うまいものを食べたい、異なる人たちに会いたい、こうした旅への欲求のために、長距離旅行に必要な装備、衣類や食料、あるいは旅行中の食を得るための武器などを持参して旅立った。アフリカにいた人類の祖先は、森の食料がなくなると集団として新たな森を探して歩いた。その延長がアフリカから南米南端までの旅行となった。

 

沢木さんの描く西川の魅力は、こうしたヒトとしての根源的なもの、歩いて旅する、アフリカからのホモ・サピエンスの脱出が重なり、逆に日本に帰国後の西川の生活態度に現代人を見る。著者が描きたかったのは、ただの冒険家でない西川のこうした姿だったのかもしれない。歩いて旅する動物、これがヒトなのかもしれない。

 

2023年1月3日火曜日

短命県青森

 


アメリカの州別の平均寿命を見てみると、2020年の集計では、ハワイ州がトップで80.7歳、二番目はワシントン州で79.2歳、逆に一番低いのはミシシッピー州で71.9歳、二番目はウエストバージニア州の72.8歳となる。ハワイ州とミシシッピー州を比べると、9歳近い差があり、驚く。大まかなランキングの傾向を見ても、特に暖かいところが長生きしているわけではないが、どうも、州による人種割合の傾向が関与しているようである。すなわち人種別で見ると、2021年の統計では、白人の平均寿命は764歳、黒人が70.8歳、アジア系が83.5歳、ヒスパニックが77.7歳、原住民が65.2歳となっている。コロナの影響が強いとは言え、アジア系と原住民を比べると18歳の差がある。アジア系の住民の多いハワイやワシントン州の平均寿命が高く、黒人の住民の多い州の平均寿命が低いようだ。

 

2020年の日本の県別の平均寿命(男女の平均)を見ると、滋賀県がトップで85.5歳、次が長野県で85.4歳に対して、一番低いのは青森県の82.8歳、次が福島県の83.7歳となる。長野県と青森県を比べると、3歳くらいの差でアメリカほどの差はないし、日本で最も寿命の低い青森県でもアメリカの州別ランキングでは一位となる。世界的に見ると、2019年の統計では一位は日本で、84.3歳で、二位がスイスで83.4歳となり、最低はレソトの50.7歳、ついで中央アフリカ共和国53.1歳となる。青森県の82.8歳というのは、7位のオーストラリアの83歳と8位のイスラエルの82.6歳の間くらいとなる。医療福祉制度の模範とされる北欧諸国、例えばノルウエイは82.6歳、スウェーデンは82.4歳、フィンランドは81.6歳、デンマークは81.3歳なので、短命県、青森と言われてもそれほど悲観すべきではない。ただ青森県男子の平均寿命は79.27歳で、これは世界で24位くらい、女子の平均寿命は86.3歳で、世界の10位以内に入ることから、青森県男子に課題が多い。

 

青森県では、現在、短命県返上として様々な活動をしている。女子ではトップの岡山県が88.29歳、青森県は86.33歳で、1.94歳差であり、世界的にも青森県女子の平均寿命はそれほど短命ではない。むしろかなり良い。一方、男子についてはトップの滋賀県が82.73歳に対して、青森県は79.27歳と3.46歳の差があり、世界的に見てもアメリカを除く欧米主要国にも劣る。また青森県男子は二番目に低い秋田県が80.48歳なので、1歳以上差があるダントツの最下位で、これは国民皆保険制度をもつ国の中でも恥ずかしい。雪国、寒さが厳しい北海道でも男子の平均寿命は80.92歳であることを考えると、少なくとも青森県男子の奮起が望まれる。

 

寿命、余命に関するほとんどの統計では、青森県が最下位であるが、唯一、まだマシなのは、健康寿命で、2019年の調査では男子では71.73歳で全国42位、女子は76.05歳で13位となっている。つまりあまり寝込まず、早く死ぬというのか。家内やうちの従業員に聞いても、80歳まで寝込むくらいなら生きたくないと口を揃えて言う。娘や息子に迷惑をかけたくない、元気でバリバリしているうちにポックリ亡くなりたいと言う人が多い。また世界の平均寿命ランキングを見ていると経済的貧困国が低く、アメリカのような経済大国であっても格差が大きい国は低い。つまり経済的な問題が大きく平均寿命に関与するように思える。ちなみに2020年度の都道府県別の平均月収を見ると、青森県が24.1万円で最下位、次が岩手県で24.6万円、秋田県24.7万円となる。それぞれ男子の平均寿命ランキングは青森県が47位、岩手県が45位、秋田県が46位と下位を占める。ただ月収44位の宮崎が寿命では32位、月収43位の山形は寿命29位、月収42位の沖縄が寿命36位となっている。逆に月収一位の東京は寿命11位、月収2位の神奈川が寿命5位、月収4位の愛知が寿命8位、月収5位の京都が3位となっていて、月収の多い県がだいたい寿命も長い。例外は、月収が3位の大阪が寿命38位、月収21位の長野が寿命2位、月収28位の福井が寿命6位となっている。

 

青森県男子の短命の原因については、今は県をあげて調査、研究し、その結果はいずれ出てくると思うが、青森県のランキング一位の中で、短命と関係する要因を探してみる。食塩消費量、ソーセージ消費量、インスタントラーメン消費量、炭酸飲料消費量、喫煙率、干物消費量、自殺率、男子小中学生肥満率、睡眠時間(ここまで全て1位)、60歳以上自殺率(2位)、男子BMI(2位)、マヨネーズ消費量(2位)、転職率(2位)、週一回以上の運動・スポーツ実施率(46位)などがある。一方、男子で一番長生きする滋賀県のランキング一位の中で短命に関係する要因は、キャンディ消費量しかない。これは驚きで、それでは2位の長野県はと言うと味噌消費量、砂糖消費量、3位の京都は、コーヒー消費量、佃煮消費量で、いずれも全国2位も含めてこれだけしかない。このことは青森県男子の食品嗜好自体に問題があり、いわゆる体に良くないと思われる食べ物が好きなのである。こうした全国一となるものを消していくのが短命県返上の決め手かもしれない。ちなみに青森県内で見ると、男子の平均寿命の高いのは、1位三沢市、2位新郷村、3位おいらせ市、4位十和田市、5位六戸町と南部地方が上位で、6位に弘前市が入るが、7位六ヶ所村、8位田子町、9位八戸市となっている。津軽地方の男子がより酷いのだろう。


2023年1月1日日曜日

関西に対する青森の認識度

 

関西学院大学は関西では有名私大であるが、青森県では関東学院大学以下である。



ネットで、青森県出身の奥さんと熊本県出身の旦那さんの東京に出ることに対する価値観の違いが話題になっていた。青森県出身の奥さんに言わせると、青森の人にとって、外に出ることはイコール、東京に出ることを意味するが、熊本の人にとっては、福岡、広島、大阪も選択肢になるというものだ。もちろん青森から東京までの間には仙台という大都市があるが、それでも東京には全く及ばない小さな都市という認識である。

 

こちらで矯正歯科をしていて、東京の先生が羨ましいと思うのは、患者さんの受け入れ制限、転医が少ない点である。弘前でいうと、高校生で矯正治療を受ける人は、大学進学となると名門大学のある東京に進学する学生が多い。矯正治療は、少なくとも2年間かかるので、高校1年生以外の2年生、3年生の患者さんは断り、進路が決まった時点で、どうするか決めている。多くの場合、東京の大学に進学するために、東京の先生に紹介することになる。同様に弘前大学の学生についても、卒業後の就職先は東京に集中するために、大学1、2年生の学生以外は受け付けられない。中学生では永久歯がまだ完成していないこともあり、弘前では基本的には高校1年生と、大学1、2生しか矯正治療の対象にならない。こうしたことは東京の先生ではあまりなく、高校生は余程のことがなければ、東京の大学を選ぶし、同じく大学生も東京の企業に就職する。社会人になって青森に就職しても、転職などで東京に行くことが多い。

 

青森の場合は、県外というと、もっぱら東京を指すことが多く、大阪という選択肢はあまりない。むしろ大阪に行く人よりは、海外に行く人が多いくらいであり、青森と大阪の距離より、青森とアメリカの距離が近いくらいである。うちの次女は兵庫県の関西学院大学に進学したが、弘前の高校では、関西学院大学のことは先生も含めて誰も知らず、そんな大学を聞いたことはない、関東学院大学の間違いでないかと言われた。関西圏内では、関西学院大学は私立の名門校で、東京で言えば青山学院や法政大学に近いが、青森では全く無名である。そのため卒業した高校のHPを見ると進学先大学の序列(いい大学から載せる)では、関東学院大学以下となっていた(関東学院大学経済学部の偏差値は40、関西学院大学経済学部は57.5)。

 

同様に大阪の人が青森に来ることはほとんどなく、一時、弘前にいる関西人で集まりを持とうということを提唱したこともある。弘前でいうなら関西出身者は学生を除けば、おそらく20人程度であろう。街中で関西弁を聞くことは少なく、開業当初、私が関西弁を使うので、余所者感が強く、患者さんから「こちらにずっとおられるのですか」という質問を受けたし、学会などで数日、休診していると、患者さんから弘前歯科医師会に連絡があり、いなくなっていないか確認された。

 

弘前には、有名なお菓子屋「大阪屋」や弘前藩御用商人の大津屋は大津出身であったり、北前船が盛んであたった江戸時代は、そこそこ、関西とも関係があったが、明治時代以降、関西と青森はほとんど関係がなくなり、長い間、東北本線の青森—上野というルートが県外との主要な流れとなっていた。今でこそ、大阪—青森間も飛行で行けば2時間くらいあるが、私が弘前駅から夜行列車で大阪に行った時は16時間以上かかったと思う。よほどでなければ、青森から大阪に行くことはなかった。

 

そうした中、シソンヌのじろうさんは、弘前高校を卒業後に大阪の関西外語大学短期大学に進学している。これはよほど珍しく、進学校、弘前高校や青森高校の進学先(令和4年度)を見ても、京都大学が少しいるくらいで、県外の大学イコール東京の大学という考えがある。もう少し西日本にも青森の魅力を知ってほしいし、逆に青森から関西の大学にも行ってほしい。