2026年9月19日土曜日

函館旅行から弘前の観光をちょっと考えてみた その2

 



ここまでをAiで提案書にまとめてもらうと

 

弘前市インバウンド観光活性化に向けた戦略的提言書




〜宿泊インフラの拡充と手ぶら観光の実現による富裕層・連泊客の獲得〜 

1. 提案の背景と現状の課題

近年のインバウンド市場において、欧米圏を中心とする個人旅行者(FIT)は、日本の伝統的な歴史文化、城下町の街並み、ローカルな体験を強く求めている。しかし、弘前市は優れた観光資源(弘前城、武家屋敷、寺院、りんご文化など)を有しながらも、以下のインフラ面において函館市をはじめとする競合都市に大きく水をあけられている。 

  • 宿泊インフラの硬直化とビジネスホテル偏重:
    高級・中級ホテルの選択肢が限られており、高付加価値な体験を求める富裕層インバウンドの受け皿が決定的に不足している。 
  • 広域移動における手荷物負担:
    長期滞在の外国人観光客は大型スーツケースを携行しており、新青森駅から弘前市内への移動における心理的・肉体的負担が滞在のハードルとなっている。 
  • 情報インフラの老朽化:
    市内の歴史解説や道案内標識の多言語対応、デジタル対応(QRコード等)が遅れており、まち歩き観光の利便性に改善の余地がある。 

2. 具体的な対策提案

提言①:「新青森駅起点」の手ぶら観光(LCC:Luggage-Free Travel)の構築

現在、弘前駅を起点とした手荷物配送サービスは存在するが、インバウンドの主たる動線である「東北新幹線・新青森駅」からの連携が不可欠である。 

  • 新青森駅〜弘前市内ホテルの即日配送網の確立:
    新青森駅の改札周辺(または特設カウンター)で午前中に荷物を預かり、夕方までに弘前市内の主要ホテルへ直接配送するシステムを構築する。 
  • 官民連携による価格設定と採算性:
    利用料金を1個あたり1,000円に設定。インバウンドのボリュームゾーンを捉え、1日100個の取扱(日商10万円)をマイルストーンとして民間物流業者や観光協会と連携し、採算性の早期確保を目指す。 
  • ホテル間および新青森駅を結ぶ「共同シャトルバス」の運行:
    主要ホテルが共同出資・連携し、朝夕の時間帯に弘前市内主要スポット・ホテルと新青森駅をダイレクトに結ぶインバウンド専用バスを運行。在来線乗り換えの心理的負担を軽減する。 

提言②:富裕層インバウンドをターゲットとした「高級・中級ホテル」の誘致

「東京〜青森空港(タクシー利用)〜弘前宿泊〜新幹線〜札幌・ニセコ」というゴールデンルートに代わる北日本縦断ルートを定着させるため、上質な宿泊環境を整備する。 

  • ラグジュアリーホテル・ブティックホテルの誘致:
    ビジネスホテル中心の供給過剰による価格ダンピング(函館等で見られる傾向)を避け、客室単価5万円以上の富裕層向け外資系・国内高級ブランド、または城下町の風情を活かした古民家・武家屋敷リノベーション型高級旅館の誘致を推進する。 
  • 行政による投資インセンティブの整備:
    撤退・解体された大型施設跡地や市有地を活用し、ホテル開発事業者に対する固定資産税の減免や、インバウンド対応設備(ユニバーサルデザイン、多言語対応フロント)への補助金制度を拡充する。 

提言③:デジタル技術(QRコード)を活用した歴史標識の全面刷新

外国人観光客の知的好奇心を満たし、回遊性を向上させるためのまち歩きインフラを整備する。 

  • 案内標識の多言語・デジタル化:
    市内に点在する老朽化した歴史標識・由来書きを順次刷新。スマートで景観に配慮したデザインに変更し、英語・中国語(繁体字・簡体字)・韓国語に対応したQRコードを配置する。 
  • スマホ連携によるオーディオガイド化:
    QR
    コードを読み込むことで、テキストだけでなく音声(オーディオガイド)で街の歴史や建築の魅力を深く学べる仕組みを提供し、ガイド不足を解消する。 
  • レンタサイクル(E-Bike)のUX改善:
    坂が少なく自転車観光に適した弘前の特性を活かし、予約から決済、多言語での利用説明までをスマートフォン一台で完結できるシェアサイクルシステムの導入とポートの増設を行う。 

3. 期待される効果

本提案の実施により、弘前市は「数時間で通り過ぎる通過型観光地」から脱却し、**「1泊以上滞在し、地域に深く消費をもたらす滞在型観光地」**へと転換できる。
また、函館のような海産物や土産物店だけの「観光一本足打法」に依存した過剰状態を反面教師とし、地元の持続可能な経済(農業や地域コミュニティ)と調和した、真に価値のある国際観光都市としての地位を確立することが期待される。 


*PS.  弘前駅前のゲームセンター跡地がホテルになりそうだが、敷地からは小さなホテルであろう。また弘前駅すぐ横の旧吉井酒造工場、倉庫については、あくまで噂話の範疇であるが、土地収得なども活発化してきており、保有者のフジタにも動きがあるようである。この会社は市街地開発などの「まちづくり事業」が得意で、小田原市駅前のミナカ小田原のようなホテルや商業施設が入った施設が駅前にできると個人的には嬉しい。弘前市も県立郷土館の誘致にも成功したので、こうした事業にも積極的に関わってほしい。また観光資源としての弘南電鉄、弘前中央駅の廃線後の活用もそろそろ考えてほしいものだ。

 


函館旅行から弘前の観光をちょっと考えてみた その1

 


先日、家内と一緒に函館に一泊の旅行に行ってきた。近場なので、できるだけ安いホテルを探すと、一泊二食付きで税込1万円くらいのところが湯の川温泉に見つかった。もちろん平日のAGORAでの検索であるが、それにしても安い。実際に泊まると少し古いがいいホテルで、大浴場も良かったし、食事もバイキングで、そこそこの内容であった。20年ほど前にも函館に行ったことがあるが、その時は新幹線が通ってなかったので、青森から直通の特急で行った。今回の新幹線による旅行では、新函館北斗駅から函館駅までが意外に遠く、20分ほどかかり、弘前からだとまず新青森駅に行き、そこから新幹線、そして函館線となる。

 

函館駅前に、知人の矯正歯科の先生が近々開業するので、どうなっているかを見てきたが、それにしても函館はホテルが多い。また朝市も魚介物を扱う店ばかりで、いささか見飽きた。少し函館の問題点を考えながら、弘前の今後の観光政策について検討したい。

 

1、函館のホテル、旅館

 

函館には100室以上のホテル、旅館は35軒、総客室数は8000室以上、それに対して弘前は、ホテルルートイン、ドーミーイン、東横INN、スマイルホテルの4つのビジネスホテルと、弘前プラザホテル、弘前パークホテル、アートホテル弘前シティーなど、合わせて7軒しかなく、総客室数も1040室である。また函館は、函館国際ホテルだけで総客室数は435室、湯の川温泉のホテル、旅館の多くは150-250室の大型施設である。年間の観光客数は函館が606万人に対して弘前は235万人、宿泊者数は函館が504万人、弘前は67万人で、函館は来るだけでなく、宿泊者も多い。弘前には平日のビジネス客を中心にした宿泊者が多く、函館は観光客が多いことによる。湯の川温泉にある大型のホテル、旅館のような宿泊そのものを楽しめる施設は弘前にはない。

 

2.函館の観光的利点と欠点

 

明治時代の洋風建築は函館の方がよほど多いし、坂からの海への景観は素晴らしい。一方、江戸時代の古い建築物は弘前城、武家屋敷も含めて、弘前市の方が多い。欧米からの観光客からすれば見慣れた洋風建築より、城や武家屋敷、寺院の方が魅力的に思うかもしれない。また函館の街は坂が多く、高齢者の観光客にとって、少しきつい場所である。弘前、函館ともに観光地だけであれば、4、5時間で回れるため、リピーター客は少ないと思う。さらに函館は、弘前より明らかに観光客向けの施設、旅館、ホテル、物産展、土産屋が多く、函館そのものが観光にかなり依存しており、いわば函館経済が観光という一本足打法に依存している。このため、観光業に浮き沈みで、経済が左右される。以前は、漁業や造船業も盛んなところであっただけにこの規模の街としては怖い感じがある。

 

3.新幹線の札幌延伸後の危惧

 

新幹線が札幌まで延伸すれば、新函館北斗から札幌までは1時間、新青森から札幌までは2時間くらいとなる。東京から行くと、弘前も、函館の在来線の乗り換えが必要で、それも含めると4時間半くらいとなる。朝、8時に東京を出ると弘前に着くのは12時頃、函館に着くのは13時頃となる。いずれも4、5時間、観光すると、普通はそこで一泊となる。ただ札幌まで延伸すると、函館、弘前に泊まらず、昼間に観光して、そのまま札幌に行く人もいよう。欧米人観光客の多くはジャパンレイルパスを使っており、古い城下町を見たいとなると、まず弘前に昼に着いて、観光し、宿泊し、次の日の朝に函館に行き、観光後は泊まらず、そのまま札幌にいくコースを選ぶ、効率的に北東北、北海道を回るとなると、こうしたコースを選ぶ人も増えそうである。

 

4.函館のお土産屋

 

20年前に比べて函館駅前は劇的に変化して綺麗に街並みになった。一方、朝市の規模もとてつもなく大きくなり、駅前周辺は朝市だらけ、海産品の店ばかりとなった。個人的には海産品は買っても持ち帰りは大変だし、送ってもらうなら近くのスーパで買うわと思ってしまう。これだけ数が多く、よく経営的に成り立っているものだと思う。特に中国、台湾からの観光客が多かったが、買う商品は限れられているように思った。またれんが倉庫のある地区には、オルゴールやガラス商品が多く、展示していたが、若い女性にターゲットを絞った商品が多く、白人男性と何も欲しくないよねと目と目があって、互いに確認した。それでは弘前はというと。ここはりんごしかない。函館の海産物と弘前のりんご、どちらも観光客を惹きつける要素として、これだけでは一歩足りない。

世界的なグルメ評価、ゴ・エ・ミヨの掲載店は、函館では3トック店がイタリア料理1店、フランス料理1店、寿司1店、2トックがバスク料理1店、人気がスペイン料理1店の計5つとなっている。それに対して弘前では3トック店は日本料理が1店、イタリア料理が1店、フランス料理が1店、2トック店はイタリア料理が1店の計4店である。ほぼ互角である。温泉については函館には湯の川温泉という日本でも有数な温泉があるが、弘前では嶽温泉、百沢温泉、あるいは周囲には多くの温泉があるがいずれも規模は小さい。

 

5.弘前市の今後の観光対策

 

まず。ホテルが少なすぎる。ここ10年で弘前キャッスルホテルはなくなったので、いわゆるビジネスホテルに当てはまらない中級ホテル、夫婦、家族で泊まるようなホテルが、弘前プラザホテル、弘前パークホテル、弘前アートホテルくらいしかなく、老朽化している。感覚的には函館の1/10くらいしかないように思える。宿泊設備として函館の大きく水を開けられている。一方、函館については供給過剰傾向があり、今回の旅行のように平日の宿泊はダンピングかと思える値段がついていた。高級ホテルは弘前にはなく、大鰐町に星野リゾートの「界 津軽」があるが、弘前駅からは少し遠く、個人的な感想を言えば、他の高級旅館とさほど違いはない。東京から青森空港にきて、タクシーで弘前市内のホテル、次の日は新幹線で函館、そして札幌、ニセコという日程もある。

 

6.インバウンド観光客への配慮

 

いつも思うのだが、外国人観光客は長期の観光なのか、ともかく荷物が多い。そのため移動は大変である。もし新青森駅の裏から弘前市内へのホテルへのスーツケースの配送サービスがあれば、便利である。一個千円、1日、数回の配送があれば、利用する外国人観光客も多いのでは。1日、100個のスーツケースを取り扱うことができれば、ペイできそうである。弘前駅の構内には市内のホテルまでの配送サービスがあるが、むしろ新青森駅からの方が便利である。手ぶらで在来線に乗り換え、ホテルまで行けるなら楽で良い。またホテル業者で協力して、何箇所かのホテルを周り、新青森までいくバスがあってもいいだろう。弘前市内には町の由来を示した標識(古町名標柱)があるが、そろそろ古くなったので、新しい標識にかえ、QRコードで英語、中国語でも表記したらどうだろうか。またレンタルサイクルは弘前を一番効率的に回れる手段で、利用者は多い。使い方などもう少し工夫がいるのかもしれない。

 

7.函館の集客施設の失敗?

 

以前は函館駅前には老舗のデパートがあったと思ったが、今は解体され、ハコビバという複合施設があった。ビアガーデンがあるのか入り口にテントな並び、レストランや食事所もあるが観光客はほとんどおらず、2度ほど入ったが、怖くなって出てきた。最近の建物のようだが、すでにゴーストタウン化している。同様にキラリス函館という施設もほとんど人気がなく、行かなかった。むしろ観光客の多くは朝市の方に流れていった。少し驚いたのは、この新しい函館駅のトイレがウォシュレットなしの蓋なしトイレで、今時珍しいと思った。何しろ、駅前が朝市、海鮮丼の店ばかり、朝市といっても鮮魚や野菜、惣菜店は全くなく、あくまで観光客の土産店と食堂だけで、それも台湾の夜市のようなさまざまの店がなく、ほぼ干物、カニに店が際限なくある。さすがにあれを買う欧米人は少ないだろう。また地元民も普段から行くこともないだろう。地元で問題化しないのだろうか。明らかに過剰状態である。


2026年9月16日水曜日

田中清玄自伝

 


先日から、田中清玄自伝を読んでいる。田中清玄といえば右翼のフィクサーという黒く、悪いイメージの人だが、この本を読んでいると、すごく真面目で素直な人のように思える。自伝と言っても、インタービューをまとめたものであるが、それでも2年間にわたるインタビューを原稿におこし、本人にも確認したものであるので、自伝と言いっても良い。

 

戦前は日本共産党の幹部、その後、転向して、天皇主義者となり、終戦後には天皇に直接、面会をした人物で、一人の人間としての増幅は桁違いに大きい。中国では鄧小平と本音に話せる人物で、天皇訪中の裏方である。特におかしかったのは、右翼、左翼にかかわらず、嫌いなものは嫌いと率直に語っているところで、日本の首相で、評価しているのは鈴木貫太郎、吉田茂くらいで、佐藤栄作、田中角栄、中曽根で普通、その他の首相についてはアホか普通くらいにしか思っていない。最も嫌っているのが岸信介と児玉誉士夫で、児玉に雇われた殺し屋から三発の銃弾を浴びた。

 

非常に柔軟な考えの人で、靖国神社の参拝にも反対したり、全学連には資金協力もした。極端なイデオロギーに染まることもなく、日本共産党ではその中枢にいて、幹部を間近に見て、その人間性を批判し、絶望している。さらに11年間獄中にいながら、共産党、主義について徹底的に検討した挙句、その問題を認めて、転向した。実体験を通じた転向と入って良い。その後は禅の道に入り、左翼、右翼を超えた考えに至った。彼にとっての人物評は左翼、右翼、地位、年齢に関係なく、人物直接、自分の考えを持ち、営利をもてめず、女に潔癖な人物を好んだ。そして昭和天皇、平成天皇を最も愛した。

 

私もこの歳になるといろんな人物に会うことがあるが、それでも安倍首相などいわゆる偉い人は、自分たちとはレベルの違う優れた人も思いがちである。大きな会社の社長も知っているし、その業種では有名なことを勘違いして傲慢な言動をする輩もいるが、関係ない人からすればただのおじさんにすぎない。本書では、僕らの世代では共産党幹部ではクリーンなイメージを持つ野坂参三についても「(野坂の窮地を救った)あろうことかその山縣を、野坂はソ連スターリン一派に売った。問題はそれなんだよ。野坂はそういう人物だ。共産党つてそんなもんだ。人格なんかあるもんですか。自分の出征のためには何でもやる。略 共産主義者になったから、人格が向上するなんて、そんなことはあり得ない。もっと悪くなる。俺を見ろ。もう少し人間が良かったのに、共産党に入ったため、これほど悪くなったり、根性もひんまがったし、人をなかなか信用しなくなった」とけちょんけちょんである。

 

 

またこの本には入江侍従長が聞いたこととして「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし、許し難いのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役を果たし、戦争責任の回避を行なっている者である。瀬島のような者がそれだ」と昭和天皇が瀬島龍三を嫌っていた、としている。これには昭和天皇の孫の結婚式に瀬島夫妻を仲人にしたという事実もあり、田中のデマという声もある。ただ田中の天皇崇拝の気持ちを考えると、入江侍従長から聞いた話は本当と言える。天皇が喋ったというでっちあげを作って、瀬島を攻撃するような、卑怯な手段は流石にできない。

 

今でも一部の人からは神扱いされている安岡正篤にも厳しく、安岡から会いたいという話があったが、「天皇陛下のおっしゃることに筆を加えるような偉い方と、会う理由はありませんからね(笑)。私には自己宣伝屋を相手にしている時間の余裕などなかった。」と言う反面、山口組の田岡一雄とは気が合うのか、最後まで付き合った。ちなみに田岡一雄の長男、満の仲人を田中がしたが、田岡満は六甲学院の先輩に当たる。同じ、戦後の政財界のフィクサーと呼ばれる安岡と田中、どちらかというと私は田中清玄の生き方の方が人間として正直で好きである。

 

一読に値する本である。いわゆる偉人、偉い人の化けの皮が剥がれる本である。転向した裏切り者とされるが、連合赤軍のような組織にいて、よく考えれば、とんでもない組織だとわかり脱退するのは普通であろう。


2026年9月11日金曜日

弘前と二・二六事件

 



先日、北一輝、二二六事件を調査、研究している方が弘前に来たので、一緒に酒を飲んだ。弘前には二二六事件に関与し、処刑された対馬勝雄中尉がいて、今回の調査に含まれている。対馬中尉については、寺島英弥著、「二二六事件 引き裂かれた時刻を超えて 青年将校・対馬勝男と妹たま」(ヘウレーカ)という本がある。早速Amazonで取り寄せ読んでみた。優秀で優しかった兄、その処刑前の家族との対面の光景には泣かされる。

 

二・二六事件については多くの著書に書かれているが、昭和初期の財閥と政治家の癒着、汚職、あるいは不況、凶作による地方の貧困化が絡み合って、天皇を頂点にした親政を目指すものであった。もちろん、多くの軍事クーデターと同じく、軍人が政権を担う軍事国家の道である。昭和11年のニ・ニ六時件は昭和7年の五・一五事件に比べて関係者の処罰が厳しく、五・一五事件では処刑者は一人も出ず、禁固刑も軽いものだったが、二・二六事件では19人の軍人、民間人が処刑された。民間人で処刑されたのは北一輝と西田税の二人で、直接的な行動には参加しなかったが、思想的な指導者として処刑された。

 

青森県では、対馬勝雄中尉以外に、佐藤正三、宮本誠三が禁錮1年半(執行猶予)の判決だった。いずれも弘前中学、弘前高校、東京大学に進んだ弘前の秀才であり、養生会のメンバーで当時、養生会で理論的な指導をしていた伊東六十次郎の薫陶を受けた。弘前では同会を中心に昭和初期から日本主義、国家主義的な教育が行われ、北の地で活発な活動、論議が行われた。実際に養生会では今でも石原莞爾の「戦争史大観」の生原稿、北一輝の「国体論及び純正社会主義」の初版本がある。また伊東六十次郎と北一輝あるいは西田悦との直接的な接触や、中国革命に深く関わった弘前出身の山田純三郎と北との上海での接触はあったと思われる。対馬中尉、佐藤、宮本以外にも二・二六事件に関与した青森人は多い。ついでに言うと対馬勝雄中尉が所属していた豊橋陸軍教導学校の上官、砲兵学生隊長には弘前藩の儒学者、兼松石居の子供、兼松成器大佐で、同郷で接触はあったのだろう。兼松大佐は二・二六事件後、陸軍少将になってすぐに予備役となった。さらに弘前で国家主義の理論的リーダーであった伊東六十次郎は、終戦間際、40歳で二等兵として徴兵され、戦後はシベリアに12年間抑留され、最後の引揚者として帰還した。一種の懲罰徴兵であった。

 

戦後、佐藤正三は弘前市の教育行政に傾注し、昭和43年、初代の教育次長になったが病をえて亡くなった。養生会の会員には、教育行政に関わる人が多く、『養生会百年史』をみても、戦後だけでも田村清三郎(青森県教育長)、小山俊夫(教育次長)、佐藤俊雄(弘前市学務課長)、大谷誠蔵(岩木町教育長)、小田桐孫一(弘前高校校長)、佐藤正三(弘前市教育次長)、鈴木忠雄(弘前高校校長、弘前南高校校長、県教育次長)、鳴海重(弘前高校校長)などがいる。こうした先生たちは、右翼、左翼という枠から外れ、強いて言えば、郷土愛を持つ教育を目指した。       

 

弘前のおかしな点、あるいはすごい点は、こうした養生会のような組織が現代まで残っていることである。日本中の多くのこうした組織は、戦後、消滅した。GHQによる取り締まりもあるだろうが、戦争の反動による市民からの突き上げも消滅した要因であった。もちろん弘前も古くから左翼活動が盛んな土地で、津川武一のような東北初の共産党衆議院議員が生まれたところでもある(通算5期)。ところがここは物持ちがいいところで、戦後の荒波にも関わらず、戦前の体質、文化が底辺にそのまま残った。さらに言うと江戸時代の体質、文化、さらに明治、大正のそれも継続して残っている。多くの都市では戦後、一気に古い体質、文化を捨て去ったが、弘前は地層にように残り、断層はない。さらに言うと、この地層は斜めになっており、あちこちに古い地層が出ている。地層をあえて掘る必要もなく、あちこちに露出している。




2026年9月7日月曜日

プラモデルは難しい

 

Classic Air Frames社の1/48 Boeing F4B 作るのが難しい



レベルの1/72 第一世界大戦 名機シリーズ 60年くらい前のもの


子供の頃はよく歯科医になるには手先が器用でないと言われ、プラモデルはすぐに買ってもらい、主として1/72の飛行機をたくさん作った。レベル、タミヤの1/72あるいは個人的に最も好きだったのはタミヤの1/100のジェット戦闘機シリーズだった。ほぼ塗装も銀一色というのもよかった。モノグラムの1/48や長谷川の1/32などの飛行機もたくさん作った。これが小学5年生から中学2年生くらいまでのことで、当時は、「航空ファン」も購読していたし、その別冊の「世界の傑作機シリーズ」も買っていた。ところが中学3年生くらいになると急に興味がなくなり、その後、長い間、プラモデルを作らないという時期が続いた。

 

再開したのはほんの2年ほど前で、近所の模型屋を行くと、昔の感覚からすると驚くほどプラモデルが高くなっている。2千円くらいは普通で、1万円を超えるものもある。それでも比較的安い長谷川や田宮の1/72の飛行機を買ってきて作ったのだが、仕事が歯科医なので、まさしくプラモデル作りには理想的な環境である。以前はヤスリでコツコツ磨いていたのが、歯科用の研磨器具を使えば、一瞬で綺麗に研磨するし、パテの代わりに歯科用レジンが使えるし、矯正用ワイヤーあるいは銀ろう着もできる。

 

ヤフーオークションを見ていると、海外のマイナーのプラモデルや古いキットが格安で売っている。調べると単体で3000−5000円のキットが6、7個入って1万円くらいで売られている。プラモデル好きの人が断捨離として放出した。これを安いと思い、3箱くらい買ったのだが、その後、一戸建てからマンションに引っ越し、家内からはあの3つの大きな段ボール、何とかならないかと言われ、またプラモデル作りを再開した。歯科用の機材は一切、人にやるか、捨てたので、マンションにはない。塗装もエナメル、アクリル塗装は匂いがキツいので、全て水性塗装にした。

 

まずレベルの1/72 第一世界大戦の傑作機シリーズ4機を作ることにした。子供頃にあったキットなので、ほぼ60年は経っている。古いキットだが組み立ては簡単だった。落とし穴はデカルで、全く台紙から剥がれない。30分水につけても剥がれす、結局はカッターナイフで削ぎ落とす、あるいは手書きでマークを描くことになった。

 

次に挑戦したのは、Classic Air Framesというアメリカの会社のBoeing F4B-4という1/48の機体で、驚くことに位置決め用の突起、ダボと穴が一切ない。大きさもいい加減で、上下の翼をつなぐ翼柱の組み立て説明図には上下とも3mmくらい切り取るようにという指示がある。3mm、上下で6mmは流石にないだろう。他の部分も同様に修正が必要と思ったが、案の定、ほとんどの部分の修正が必要だった。またエンジン部のパーツがレジンで作られているが、ニッパーではきれず、ノコギリで切り離すしかなく、難儀した。さらに接着もほとんど瞬間接着剤を使わないといけなく、位置決め用のダボもなく、2mmくらいの部品を取り付けるのに苦労した。また強度も不足しており、針金で補強するものの、追加のセメント、瞬間接着剤で汚くなった。ここで張線をする気力もなくなり、一応完成した。いずれ張線をしよう。

 

安いには理由があり、こうした作りにくいモデルは年配の方からは多分無駄な時間がかるるため嫌われ、それゆえ、安く放出されたのであろう。私の場合、作っても半年もすると完成品はゴミ箱に捨てる。プラモデルの面白さは作る過程にある。あまり簡単に作られるのでは面白みに欠けるし、そうかといってあまりに難しいのも精神上よろしくない。






2026年9月5日土曜日

生活道路の制限速度30km

 

幅が広い道だが、生活道路?

こういう道でドライバーからよく怒られる、クランクが多い

生活道路とは、定義からすれば「主として住宅街などにあり、地域住民が通勤・通学や買い物などの日常生活で利用する狭い道路」とされているが。この狭いの定義が微妙で、一応、目安としては5.5m以下のセンターラインのない狭い道とされている。AIで、「雪国では除雪した雪が道の左右に積もるために道幅の広い道が多く、これは生活道路ではないか」と聞くと、そうではなく、標識、センターラインのない道であれば、道幅が5.5m以上でも生活道路になるという。確かに警察庁のホームページでは道幅の指定はない。

 

今、弘前駅近くのマンションに住んでいるが、この地域は救急車、消防車が入らない狭い道ばかりだったので、40、50年前から整備計画が始められ、今は綺麗に区画し、道幅の広い道となった。道の真ん中には融雪用の水が出る構造となっていたが、地下水が不十分ないので、今は融雪されていない。そのため、冬場は除雪車が入り、道の左右に雪を積み上げるために、車一台がやっと通り抜ける幅となる。最近の道路は、歩道や道幅を広げて、冬場はそこに雪を置くように設計されているので、雪国の道は除雪した雪の分も含めて道幅が広い。

 

マンションの近所を歩いていると、これまで三回ほど、車のドライバーから叱られたことがある。一度はすごいスピードで走り車がいきなり止まり、運転手が降りてきて、「どこを歩いているんだ」と怒鳴られた。歩道がない道なので、こちらもそんなに道の端を歩いていなかったのも原因である。

 

9月から生活道路での制限速度が30kmとなった。生活道路での交通事故が多いことによる。テレビでも報道されているので、知っている人も多いが、写真1のような道はどうだろうか。道幅は10mくらいあり、直線の道である。朝方は迂回道路として使う人が多く、大抵は50-60kmくらい、あるいはもっとスピードを出すドライバーも多い。ここ2、3ヶ月、この道で警官3人で何やら監視をしているのを見かけることが多かったが、これは生活道路の制限速度30kmが施行される前に、実態調査をしていたのであろう。

 

以前、ドライバーから怒られた道路は2枚目であるが、ここは道路が直角に曲がるクランクが多い道で、流石にドライバーも言われれば、道幅が広くても、ここは生活道路だとわかるだろうが、一枚目の直線の道路は歩道もあり、ほとんどのドライバーは生活道路と思わないだろう。真ん中の融雪用のノズルが並ぶのでこれがセンターラインに見られる。

 

この道を通過するドライバーの多くは信号を避ける迂回路として使っているので、少しでも急ごうと早いスピードを出す。仮に60kmで走ると30kmのスピード違反となり加点6点に免停30日、80kmで走ると加点12点、免停90日間、そして6ヶ月以下の懲役、または10万円以下の罰金となる。さらに自転車などにかすり、全治二週間未満の軽い怪我を負わすと、80kmで走った場合は、免許取り消しとなる。場合によっては職を失うことにもなる。

 

車に乗っていない私から言わせると、迂回路ばかり走るドライバーの精神構造がよくわからない。一度、大学病院に入院し、傷もまだ完全に治っていない状態で退院した。大学病院前からタクシーに乗ったのだが、このタクシードライバーは迂回路が好きな人で、狭い道ばかりをスピードを飛ばし、そのつど急ブレーキをかけ、傷が傷んだ。プロとしては失格である。おそらくこんな迂回路を使っても5分も違わないと思うのだが。

 

生活道路というのは全道路の80%以上あると言われ、信号や標識のない道路は全て生活道路と見做さなくてはいけない。つまり普段、迂回路として使っている道のほとんどは制限速度が30kmということを十分に知るならば、迂回路を使う意味はなくなる。私の近くの生活道路を見ていると、こうした迂回路を使う人の8割は女性で、案外、女性の方が辛抱強くないのかもしれない。くれぐれも生活道路でのスピード違反には気をつけてほしい。一発で免停になる可能性は高く、車を使う仕事の人は大きな迷惑をかける。

2026年9月1日火曜日

保険の手数料のことを少し調べた

 


うちの父親は、生命保険ではずいぶんお金を使った。保険外交員の言われるまま、いろんな保険に入り、70歳の頃は保険料だけで月に60-70万円支払っていた。節税対策もあったのだろうが、保険外交員から、言葉巧みに次々と新しい保険を勧められ、今、これに乗り換えるとお得だと言われ続け、少しずつ掛け金が上がっていった。70歳になると歯科の売り上げも減り、月の収入の多くが掛け金に変わり、流石にお袋もキレ、全て解約した。年間で800万円くらい、10年間で相当な額の金がほぼ溶けた。父は保険の手数料のからくりについては全く知らなかったのか、いい保険と勧められるとすぐに乗り換えた。ただ私も大人になり、保険に入るようになると、少しずつ保険外交員のカラクリを知るようになった。

 

今は昔ほどひどくないが、40年くらい前は、個人で保険を扱う、今の独立系の保険外交員ががむしゃらに手数料稼ぎをしていた。普通、手数料というと数%程度のものと思うが、当時の手数料は、ほぼ1年分の掛け金、70-100%くらい、2年目からは5%くらいとなる。つまり親父の場合、月70万円、年間で840万円の保険料のうち、この代理店、保険外交員に入る手数料は契約時に800万円近くになることを意味する。そして次々と新しい保険に乗り換えさせ、手数料稼ぎをする。溶けた金の大部分は、代理店、外交員の収入になった。美味しい客だった。

 

こうした信じられないほど高い手数料のことを知る人は少ない。今は手数料も下がっていると思うが、AIで調べるとそれでも30-70%の手数料を取るようだ。最近、よくモールやショッピングセンターで見かける複数の保険を取り扱う乗合代理店、例えば「保険見直し本舗」、「ほけんの窓口」などは、保険会社からの手数料をため、基本は販売員に固定給を払うシステム(+歩合)となっているが、基本的には高い手数料を前提としている。つまり、新規保険加入に契約に伴う手数料、月2万円の12ヶ月分、24万円×約40%=10万円を、保険会社から販売代理手数料として受け取り、月に50件の新規契約があれば、500万円の販売代理手数料が入り、そこから販売員の給与、テナント料などの経費を払うことになる。販売員は高い手数料の保険商品を勧めても個人の収入は固定給なので意味がない。客は勧められる数種類の保険商品の中から安くて、いい商品を選ぶことになる。それでも代理店ではノルマと歩合があるため、手数料の高い特定の商品を販売員が売ることになる。

 

おそらく一番安い保険は、これらの手数料の上乗せが少ない商品で、ネットから申し込み商品や、団体保険がこれに当てはまる。職域の団体保険や、身近なところでは都道府県団体保険、生協コープの団体保険がある、理論的には、個人の外交員=ショッピングセンターの乗合代理店>ネット保険(広告費が保険料に載せられる)>団体保険となり、同じ商品では30%くらい違う。

 

最近では、若い人を中心としてこうした保険の手数料の高さに気付き、安いネットや団体保険を利用する人が増えてきて、これまで独立系の羽ぶり良い保険屋さんの稼ぎが減ってきた。その稼ぎを補おうと、あるいは金融庁の規制により、いわゆる独立系のファイナンシャルプランナー(FP)への転職が多い。保険だけでなく、生活一般をみる、金融資産の管理もする。金融商品仲介業を兼ねるようになった。ただ保険と金融商品は分けて考えなくてはいけないルールとなっているが、多くのFPは一緒にするために、最近問題になっているソニー生命やプルデンシャル保険の事件はここに起因する。特にソニー保険は社内でのルールをかなり厳しくしている。証券会社では、一時の強引な勧誘に対する金融庁の取り締まりに懲りてかなり厳しいルールのもとで活動しているが、独立系のFPが多いソニー保険やプルデンシャル保険出身者はかなり怪しい活動をしている。個人的な経験では、かなり信頼していたFPから10年、元金保証、4%の利息の金融商品を勧められたが、調べるとケイマン諸島にあるI.Tという会社のものであった。かなりリスクの高い商品であった。これも保険商品と同じく、一年目に高い手数料が代理店に入る商品で、彼らは保険手数料の旨みを忘れられないのである。ただ、今はこうした無認可の金融商品を扱うことは海外の代理店を迂回するとしてもかなりグレイな商品である。

 

今でも保険会社の主たる新規顧客は、保険外交員、乗合代理店店舗からの場合が多い。昔であれば、この保険に入るとあなたへの手数料は幾らかと聞くと露骨に嫌な顔をされたが、今では金融庁も手数料開示を推奨しており、きちんと聞くのは顧客の正当な権利である。将来的には手数料開示は法律で義務化されることになり、それは親父が被ったような保険詐欺に遭わない良い手段と思われる。一方、これまでこうした高額な手数料について知らない一般の人は、開示される手数料をみて、なぜこんなに手数料を取るのかと質問されるが、それに関してきちんと答えられる保険外交員にならなくてはいけなくなった。多くの誠実な仕事をしている保険外交員にとって、一部の金稼ぎの人たちのせいで規制強化されるようになったのは迷惑であろう。今後は、手数料も欧米のような毎年の平準化、あるいは廃止の流れになるのではなるかもしれない。


2026年8月23日日曜日

珍田捨巳の功績 昭和天皇との関係

 

珍田捨巳の書簡


珍田捨巳は、青森県が産んだ偉人の一人だが、地元での知名度は今ひとつである。というのも、明治、大正期に活躍した外交官ではあるが、外務大臣、首相という高い地位につくことなく、役職の最高位としては昭和天皇の侍従長くらいしかない。もちろん、外交官としての業績を上げると、外務次官(外務省総務長官)として桂首相、小村寿太郎外務大臣とともに、日英同盟、日露交渉に尽力し、さらに牧野伸顕と共にパリ講和会議の代表となった。こうした功績により、のちに伯爵となった。ただあくまで黒子としての活躍であり、表立って舞台に出ることは少ない。大河ドラマや映画では、小村寿太郎、桂太郎が出ても、珍田が出ることない。また小説では吉村昭の「ポーツマスの旗・小村寿太郎」、漫画では能條純一の「昭和天皇物語」には昭和天皇の側近として登場する。

 

昭和天皇と珍田捨巳の関係は、大正10年(1921)の皇太子(昭和天皇)の欧州訪問の訪欧供奉長に任命されたことによる。これは宮内大臣の牧野伸顕による推挙によるものだが、外務省を含む首脳部でもそれほど反対意見がなく、すんなり決まったようだ。英語力、キャリア、とりわけ駐英大使を務めたことが決め手となった。当時、政府、あるいは山縣有朋はじめ元老たちは若い皇太子の成長に危機感を持っていた。大正天皇が肉体的、精神的に公務を担当することが次第に困難となり、皇太子による摂政が現実味を増した。ただ今のままの皇太子ではとても摂政に任には耐えられないと思われており、その対策として登場したのが皇太子の訪欧であった。近代的な元首として欧州の皇族たちと知り合い、そこで学ぶ必要があると考えられた。ただ皇太子の訪欧は予想以上の反対運動、貞明皇后、東宮大夫、東郷平八郎、頭山満なども反対したが、原敬首相の強い決意で実現した。

 

大正10年3月3日(1921)から9月3日までの6か月間のヨーロッパ各国の歴訪である。この間、一時期を除く、ほぼ全期間、珍田は皇太子(昭和天皇)と一緒にいた。通訳を兼ねていたので、常に皇太子の傍にいて、案内した。宮中の生活しか知らない皇太子にとって、これほど他人といつも一緒のいたという経験はなかった。ちなみに訪欧の時点で、昭和天皇は19歳、珍田は64歳、父親の大正天皇は41歳、祖父の明治天皇は生きていれば68歳なので、昭和天皇と珍田の関係は、孫と祖父の関係に近い。

 

昭和天皇は、生前、自分が一番楽しかったのはこの時の訪欧のことと語っており、その思い出とともに珍田の姿が鮮明に残っていたのだろう。訪欧後、珍田はそのまま東宮大夫、さらに侍従長となり、昭和天皇の即位式を全うしてから亡くなった。訪欧での二人の関係はその後も珍田の死まで続いた。摂政時代、昭和天皇は各地に行幸したが、遠方には年配の珍田の体の負担を考え、帯同せず、亡くなると、すぐに命を出して、即日に従一位に叙任させた。極めた異例のことであり、亡くなったその日に従一位に叙任されるのは基本的に首相経験者、元老で、伊藤博文、山縣有朋、山本権平、などに限られ、外務大臣の経験もない珍田が叙任することは通常考えられない。昭和天皇の強い命(めい)による。

 

昭和天皇にとって、珍田は自分の祖父のような、父のような存在であり、多くの影響を受けた。まずイギリス国王の立憲君主のあり方を珍田の通訳を通じて知り、学んだ。そしてキリスト教についても珍田の影響により宥和な態度を持つようになり、皇太子(平成天皇)の英語の家庭教師にクエーカー教徒のヴォイニング婦人を選び、皇太子の妻、美智子様はカトリック系の聖心女子学院であった。神道の総帥という立場ながらキリスト教の対して寛大だったのは珍田の影響があった。さらに自分の子供、義宮正仁親王の妃として津軽家から華子さんを迎えた一因かもしれない。さらに昭和天皇は戦争中も含めてリベラル、やや親英米派に近い考えの持ち主で、これは牧野伸顕、珍田捨巳の影響が濃い。もし昭和天皇が、訪欧の経験、側近の牧野、珍田、杉浦重剛らのリベラル、合理主義的教えがないまま、成長したなら、軍部、特に陸軍が求めるような右翼的な天皇になった可能性もあった。また珍田は自分の後継の侍従長として鈴木貫太郎を勧めたが、これが最終的に終戦に結びついた。

 

もっと評価して良い人物と思う。一番その功績を評価しているのが、昭和天皇であった。AIを使えば、若き昭和天皇の欧州訪問のドラマ、映画を皇太子と珍田の関係から描けると思うが。


2026年8月20日木曜日

左翼思想に感化された頃

 



ちょうど高校生くらいの話だ。大学の学園闘争はピークを過ぎたが、それでも高校にも少しその影響が入ってきた頃だった。阪神間でも灘高校や神戸高校でも校則撤廃を起因としたライトな学園闘争があった。我が六甲学園でも、昭和45年頃だが、頭髪の自由化を求めて高校2、3年生が灘高校など他校の運動に感化されて、活動を行った。それまで中学、高校生とも坊主という厳しい校則で、ドイツ人校長が校門の前に立ち、そこで髪の長さをチェックし、そのまま帰宅させ、散髪屋に行かせた。また学校には電気バリカンは2、3台あり、生徒に自由に使わせた。クラスに一人くらい散髪の得意なクラスメートがいて、髪を刈ってもらった。当時、中学生は坊主のところがほとんどであったが、流石に高校生で全校生、坊主というところはなく、これに対して高校2年生、3年生が反対していた。最終的には耳を露出させるという髪型という条件で認められた。

 

この時代、大学生も高校生も左翼的な思想がカッコよく思われた。私も高校2年生頃から当時、朝日新聞で持ち上げられていた中国の文化大革命を偉大なものと見ており、京都大学の竹内好教授などによる中国礼賛本を貪るように読んでいた。中国はすごい、医療から教育まで全て無料、地上の天国のような国で、その指導者、毛沢東と周恩来のような政治家が日本にも現れないのかと本気で思っていた。革命は正しいと考えていて、毛沢東語録の解説本なども読んでいた。ところが大学に入る頃になると、少しずつ文化大革命の実態が漏れてきて、これはおかしいと気づいた。そこで大学2年生の頃、昭和50年に中国が外国人解放政策をとり、団体旅行に限り、中国旅行に行けることになった。実際、中国はどうなのか、自分の眼で見たいと思い、親に援助してもらい、香港、広東、昆明、北京のツアーに参加した。常に公安の監視下に置かれ、買い物も外国人専門店でないと買えなかった。博物館に行くと多くの掛け軸が破られたまま展示されていて、文化大革命の爪痕があちこちに見られた。北京での通訳の女性は、文化大革命中、日本語のできるインテリとして僻地に下牧させられ、ようやく北京に帰ってきたというキャリアの人だった。疑問のことを尋ねると、よほど辛い目にあったのか、文化大革命のひどさを語ってくれた。私の大好きな中国解放軍の行進曲、「三大紀律八項注意」をハミングすると怒っていた。

 

帰国後、多くの文化大革命批判の本を読むにつれ、次第に中国礼賛の気持ちは萎んできて、最終的には卒業の頃に発生した中越戦争で、完全に中国に対する気持ちは切れた。日本の多くの左翼はベトナム戦争反対を唱えていて、基本的にはベトナム支持者が多かったが、そのベトナムに帝国主義的な行動で中国が侵略したという事実は、多くの左翼はこの時点で、左翼思想から離れていった。私自身、大学2年生頃に中国に行ったことをきっかけに、さらに藤田省三の「転向の思想史的研究」を読み、人はいかにして簡単に転向し、それも左翼からウルトラ右翼に転向するのかが理解できた。さらにあれだけ大学闘争をしていた活動家が何事もなかったように大企業に勤める事例を多く見てくると、左翼のいうことが全く信じられなくなった。一時期は、仙台の勾当台公園に座っていると左翼活動家がベンチに座っている私に左翼活動に参加するように誘われた時はかなり腹が立ち、議論した。最後は、大学というぬくぬくとした生活を過ごすのではなく、即刻、大学を辞めて、北朝鮮に行けと言うと、急に泣き出した。悪いことをしたと反省している。今なら、それはそれ、何とか誤魔化す知恵はあるが、あの純粋な若者にはきつい言葉であった。

 

結局、左翼の思想を含めて、こうした理論を突き詰めていくと、最終的には思想、信念のために死ねという陽明学、あるいは吉田松陰の考えになり、左翼で言うならテルアビブ空港乱射事件、右翼で言うなら政治家の暗殺に行き着く。思想でも逃げ道を立たれると怖い。一方。辺野古の左翼活動家を見ていても、60歳以上の人が多い。20歳から活動をしているなら、彼らが理想とする社会主義国、まず中国で言うなら、大躍進による数千万人の餓死、文化大革命、ウイグル、チベット民族弾圧、ソ連で言うならスターリンによる粛清など、北朝鮮の拉致問題、など社会主義のさまざまな問題を見てきたはずである。その上でまだこうした活動をしていること自体が信じられない。どこかで思想自体の限界を感ずるはずだが。

2026年8月11日火曜日

シンシナティ美術館、「Gifts From Japan」展



シンシナティ美術館、「Gifts From Japan」展

 

現在、アメリカ、オハイオ州、シンシナティ美術館では、私が寄贈したコレクションを展示した「Gifts From Japan」が開催されている。40点の作品を寄贈したが、そのうち9作品を8月30日まで展示し、その後、作品を変えて10月まで展示する予定である。

 

現在、シンシナティ美術館では、世界で最も人気のある日本人現代画家、草間彌生展が開催されており、その流れとして私のコレクション展も開催しており、会期もほぼ同じとなっている。草間彌生展は没入型展示スペースが設けられているため入場制限しているが、人気があり、なかなか予約が取れないようだ。この草間彌生展の出口のすぐ隣に「Gifts From Japan」がやっているので、入場者はそのままこの展示も見るというわけだ。さらに美術館の入り口に近いので無料の観客を見ていく。草間彌生と明治、大正の古い日本人画家との対比が面白いという感想が多い。8月末までの一期の展示は全て土屋嶺雪の作品で、動物画が多い。精緻な動物画は観客にも人気があるようだ。後期は9月から始まるが、香川芳園、田中蘭谷、前川文嶺、三浦文治らの作品を展示する予定である。

 

ただ実際の展示の写真を見ると、大きな美術館では掛け軸の作品はどうも見劣りする。掛け軸は和室のような小さな部屋で座ってみるものなので、掛け軸だけの展示は美術館としてもやりにくい。100号以上の作品や屏風、襖絵などが、展示しやすい。そのため、個展や公募展などでは、普通、10号といった小さな作品ではなく、最低でも50号、できれば100号くらいの作品を持っていきたい。10号の優れた作品でも100号の作品には大きな会場では見劣りする。欧米では家自体が大きいので、100号を超える作品も個人が購入して家に飾ることもあるが、日本でも30号くらいの作品でも嫌がる。売れる絵は10号以下、5号、さらに0号という絵も人気がある。

 

画家は、名を売るためには、公募展や個展を開く必要がある。そこに大きな作品を展示し、名前を売る。そして実際に生活にために売る絵は小さな作品となる。展覧会用の絵と生活のための絵は違う。奈良美智さんのような世界的な画家となると、大きな作品であっても世界中の買い手がいるが、普通な画家にとって、50号以上の作品はあくまで展覧会用のもので、展示終了後は、どこかにしまわれたままとなる。うちのお袋のような素人画家でも、展覧会に出品のための30号以上の作品や屏風がたくさんあり、母の死後、処分には大変苦労した。号サイズがわかりにくいので、少し説明すると10号は53cm、30号は91cm、100号になると162cmくらいとなる。こんな大きな作品はよほど大きな家に住んでいないと飾られない。こうした傾向は、洋画だけでなく、日本画でも同じで、江戸時代でも襖絵、屏風はよほどのことでないと描く機会は少なく、収入のメインは掛軸となる。ましてや今回のコレクションの画家は、公募展や展覧会には背を向けていたので、その作品の多くは掛軸となる。

 

とりわけ、個人的に好きな作品は、三浦文治さんの「立葵」という作品である。三浦は大正15年(1926)に東京美術学校の日本画科に入学した。この年度は優秀な画家が多く、東山魁夷、橋本明治、加藤英三、山田申吾など、後に日本画の大家となった人たちが集まった。なかんずく、三浦は在学中にも帝展の入選も重ねており、同期の中でも抜きん出た才能があるとされ、卒業の同期生とともに六篠社というグループを作り、その中心となって活動し、昭和11年にはベルリンオリンピックの絵画部門に出品した。戦争が厳しくなるにつれ、故郷の新潟に疎開し、終戦後はそのまま新潟で美術教師を務め、中央画壇には戻らなかった。今回、シンシナティ美術館に寄贈した三浦の絵は昭和9年という最も充実した時代の作品で、その天才性は小さな作品であるが、表している。立葵を描いた歴代の作品の中でも優れたものの一つと思われる。昭和八年には友人の東山魁夷はドイツに留学している。おそらく三浦も戦後、東京に戻り、東山らと中央画壇で活動していれば、同級生と同様な活躍があっただろう。シンシナティの人たちからどうのように評価されるか楽しみである。




2026年8月8日土曜日

超富裕層の弘前旅行

 



世界の富裕層向けの旅行では、一週間の予算で一人1000万円以上という。金には糸目をつけないが、最高の経験をしたい人である。こうした超富裕層向けのトラベルガイド会社もあり、客の要望に沿って、旅行の計画をしていく。最近読んだスティーブ・ジョブズ1.0の真実では、こうした超VIPの客に関しては、タクシードライバー、寿司屋、旅館などが決まっており、ジョブズは京都ではいつも俵屋旅館に泊まる。まあトラベル会社からすれば、客の無理の要求があっても東京、京都、大阪では何とかなるであろう。ところがもし客が青森県に行きたいと言えば、どういった旅行計画を立てるだろうか。金は無限だが、お客には満足をしてもらわなくてはいけない。世界中のあらゆる豪華ホテル、レストランに知っている客である。

 

20年前のことだが、藤崎のアップルホテルにアメリカの名門、モルガン家の人が夫婦で来た。秘書が藤崎の出身だったので、ここを選んだという。地元の人との交流会もあり、モルガンさんと皆から呼ばれ、満足して帰り、その後、また来たようだ。もちろんアップルホテル側では最高に部屋に泊まってもらい、最高の料理を出したのであろうが、いかんせん、そんな高級な部屋、料理はなく、当時でいえば、一人あたりの宿泊費は朝夕の二食込みで一人1万円くらいだった。モルガンさんからすれば、散々、高級ホテルに行ったし、豪華な食事をしたのだが、一周回って、こうしたチープな宿と食事が面白かったのだろう。これは参考にならない。

 

少し違う話であるが、弘前ロータリークラブに入っていた頃の話だが、ある年、弘前ロータリーで地区大会を行うことになった。その懇親会をどこでするということになり、それでは弘前公園の本丸にテントをはり、そこで野外の懇親会をして花火も上げればいいのではという提案があった。流石に重要文化財でそんなことはできまいと思っていたが、皆、何とかなると平気で言っていた。ロータリークラブの名士なら、市長ともツウーカーそんなこともできるのだろうとその時は思った。結局、雨が降ると大変ということで、旧弘前偕行社で懇親会を行った。ここで懇親会を開くというのも難しいことだが。

 

ということは弘前ではコネとそれに見合う費用を出せば、通常の観光地以外のこともできそうである。そうした意味で、不可能なことも含めて、ウルトラ富裕層のガイドプランを考えてみたい。

 

弘前市、あるいは周辺の高いホテル、旅館といえば、星野リゾートの界・津軽か、最近できた1日1組限定のOTTABIOがある。いずれも食事付きで一名3−5万円くらいのハイクラスのホテルである。ただ1日100万円以上の予算のウルトラ富裕層にはこれでも安いが、これ以上に高いホテルは青森にはない。そこで普段は宿泊できない施設も含めて考える。まずお寺、実際、弘前の最勝院で1日1組限定の寺泊をしている。これは滅多にない経験ができる。朝食は精進料理が提供される。できれば、夕食はここから近い日本料理の「陽」か、イタリア料理の「サッシーノ」を勧める。日本最高の津軽三味線奏者、渋谷和生さんの生演奏を夜の五重塔前で聴く、最高の贅沢である。他の候補としては、藤田記念庭園内の日本家屋や平川市の盛美園も交渉すれば宿泊可能である。食事は、陽あるいはサッシーノから出張料理で、風呂は藤田記念庭園ではトレーラーハウス、盛美園ではアップルランドの温泉を貸切でいいだろう。ベッドやソファーは最高級、あるいは客が希望するものをあらかじめ運び、セッテングすればよかろう。最高のスタッフを配置してサービスを行う。

 

多分、現実的なウルトラリッチ層(外国)に対する弘前観光としては

 

1日目

青森空港―ハイヤーにて弘前観光 ― 陽(夕食)― 最勝院

五重塔前で津軽三味線(渋谷和生演奏)、津軽手踊り

 

2日目

ハイヤーにて白神山地―散策―森林でのキャンピング(コック、ベッドなど全て持ち込み)

3日目

ハイヤーで青森空港

 

寺での瞑想という体験と世界遺産での自然をゆっくり楽しむプランで、天候、季節にめぐまれれば最高の旅行となろう。

2026年8月5日水曜日

うちの叔母さん

 

尼崎市東難波

うちの叔母さん、母親の妹だが、気のいい人だが、少しおっちょこちょいのところがある。昭和33、4年頃の話である。叔母がおめかしして、着物を着て、バッチリと髪型も整え、簪もさして、京都の街を歩いていた。ふと見ると、あるホテルの入り口に、「大映〜記念パーティ」の看板があったので、何かなあと思って、そのままパーティーの会場に入って行った。受付では誰も咎められず、そのまま入ると、そこは大映の関係者だけが集まるパーティで、映画でしか見ないすごい俳優がいっぱいいる。さすがにこれは間違ったところに来たと思ったが、まあいいかとそのままパーティーを楽しんだ。市川雷蔵はいるし、その頃人気が出た勝新太郎、中村玉緒さんもいる。衣装だけは集まった人々と遜色はない。そうこうするうちに勝さんと話す機会があり、このパーティに入った顛末を話すと面白がったようだ。その折に、映画の小道具を担当する女の人と仲良くなり、その後もしばらく京都の大映撮影所に行くようになった。実家が徳島県脇町で、雑貨店をしていたので、戦前の古いかんざしや櫛などがたくさんあり、時代劇に使えるということで大映撮影所に寄贈したようだ。今でもあるかもしれない。叔母さんのアルバムには、小さな写真プリントのさらに小さく勝新太郎、中村玉緒、市川雷蔵の若かりし頃の姿が映っていた。

 

 ある年、うちの母と一緒に徳島県脇町に帰省した。当時、船は大阪の天保山あるいは神戸港から出ていて、徳島の小松島港に着く。小松島港から脇町に行くには小松島線で徳島まで行き、そこで徳島本線に乗り換えなくてはいけない。母と叔母は、小松島から徳島に電車に乗って行くと、隣のホームに、すでに徳島駅に脇町行きの電車が止まっている。ホームが違うので、階段を登って行くととても間に合わないと判断し、ホームから線路に飛び降り、線路を横切って、隣のホームに行こうとした。着物姿である。二人は何とか飛び降り、急いで隣のホームに渡ったものの、ホームが高くて上がれない、困っていると駅員が呆れたような表情で、引き上げてくれた。連結便なので、徳島本線、脇町行きは乗客を待って、発車したので、そんなに慌てなくてもよかったのだが。とんだ恥をかいた。

 

叔母さんの旦那さんは、昔の典型的なお坊ちゃんで、それはいい人であった。実家は船場で、染めの前掛けを扱う大きな商家であった。学校の行き帰りは必ず、お世話のおばさんが付き添った。困らせようと電柱に隠れながら歩いたと言っていた。この商店は山崎豊子の船場物の小説にも少し登場するようだ。義理のお母さんは明治には珍しい女医さんだったようで、お金はあったようだが、商家育ちのため始末には厳しい方で、叔母さんも苦労したようだ。うちの母と一緒に徳島、脇町に来ることが息抜きだったのだろう。尼崎の実家にもよく来た。

 

叔母さんに会うと、いつも「トシ坊ちゃんは、私がおぶっていると、帽子が落ちたことをまだしゃべりもできないのに手で知らせた。賢い子や」と会うたびの褒めてくれる。たまたまのことだと思うが、嬉しいものだ。昭和32年ごろのことで、当時、母の妹二人が大阪の服装学校に通うために実家に住んでいた。一階は歯科医院で、その奥に6畳の台所、2階は多分、増築前なので6畳の和室が2つくらいしかないところに、父、母、祖母(父方)、姉、兄、私と、叔母2人の計8人住んでいたことになる。この頃の都会は、人がむやみに多かったのか、どこの家でも狭い部屋に住んでいた。友人の家は、6畳くらいの部屋の一家5人が住み、便所、台所が共同であった。当時、まだ独身であった叔母からすれば我が子のつもりで私を背負ったのだろう。


2026年8月2日日曜日

ベロベロという駄菓子はわらび餅に似ている

 





子供の頃、多分、昭和38、9年の頃、毎日のように近所の駄菓子屋さんに10円持って、訳のわからないものを食べていた。

 

今の季節、よく食べたのが、「ベロベロ」というわらび餅のようなもので、くじを引いて、当たると大きなものものがもらえる仕組みになっていた。確か一回、五円か十円くらいであった。それを新聞紙に入れて、きな粉をかけてくれる。新聞の文字が写るんではと、ちょっとだけ心配したが、数秒で食べて遊びに行く。そんな毎日であった。

 

よく行った駄菓子屋(2)は、家(1)から10mくらいのところにあり、そこが行きつけのところであった。友達とよく行ったのはセンター市場近くの駄菓子屋(3)で、ここは駄菓子だけでなく、コマやベーゴマ、ベッタンなども売っていた。また理髪店ホープとタバコ屋の間の道、難波小学校に行く道は、近所でもデンジャラスゾーンであったが、その本道から横にそれた薄汚い小道にも婆さんがやっていた駄菓子屋(6)があり、ここはこの辺に住む子供の溜まり場であった。ここの駄菓子屋の人気があったのは、店番をしている婆さんが少しボケていたあまり勘定ができないため、子供が悪さをしていたからである。

 

こうした子供向けの駄菓子屋にも流行の波があり、一番よく行く、駄菓子屋にもお好み焼きをするようになった。一枚、十円で、キャベツのみの薄い薄いお好み焼きで、先ほど述べたデンジャラスゾーン近くにも(5)、ちょぼ焼きという10センチくらいの鉄板に1cmくらいの穴があき、そこに小麦粉を溶いた液を入れて焼く、たこ焼きのようなものがあった。これも確か十円であった。

 

歯科医院の前には、同級生のお菓子屋さんがあり、和菓子、洋菓子などが売っていたが、店主が変わってからもお菓子屋さんで、店先にはガラスケース、ボックスに入ったお菓子、キャンデーが売られていたが、ここも夏場がかき氷、冬場は関東炊きをしていた。駄菓子、お菓子屋と食べ物を売る店がある時点を境に増えた。また、理髪店、ホープの近くにもお菓子屋(7)があったが、いつの間にか、漫画雑誌をおく小さな本屋になり、販売日になると週刊マガジン、サンデー、キングなどがうずたかく置かれていて、学校から帰るなり真っ先に買ったものだ。家から難波公園に行くところに貸本屋(4)があり、何度か漫画を借りたが、ここは2、3年でなくなった。難波公園にはよく紙芝居や粘土を型に入れて、銀色や金色の粉をかけて、おじさんに渡すと、採点し、点数が増えると飾っている型を交換してくれる(8)。銀玉鉄砲やゴム鉄砲をしたのもこの公園だし、センター市場近くの駄菓子屋(3)ではこうした銀玉鉄砲やさらに強力な2B弾という先をマッチ箱のヤスリ分で擦るとシューっと音がして2、3秒で爆発する。これを手榴弾がわりにして銀玉鉄砲と一緒に遊ぶ。公園に来た鳩やスズメを狙って遊んだりもした。

 

他には、難波小学校の正門前には西村文具店(9)という店があり、ノートや鉛筆などの文具以外にも、プラモデルや切手も置くようになり、プラモデルの完成品をショーウインドーに飾っていた。この店の先には本屋(10)があり、月刊少年などの付録付きの子供向けの月刊誌はここで買った。こうした子供向けの店は家から半径500mくらいにあり、そこが我々子供の世界であった。

 

近くのロピアに阿波晩茶わらび餅というのが売っていた。会社は徳島県板野郡藍住町となっている。この番茶は父母の故郷の味であり、独特な風味をもち、この阿波晩茶にもしっかりその風味が入っていた。ただ久しぶりにわらび餅を食べたせいか、むしろ子供の頃のベロベロを思い出し、こんなことを書いている。