2021年7月18日日曜日

映画「いとみち」


 久しぶりに映画館に行った。ワクチン2回接種で、少し不安感がなくなったせいだろう。一番、最近見に行ったのが、韓国映画、ボン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」なので、一年半ぶりとなる。

 

 映画は青森県で話題の「いとみち」で、監督は青森市出身の横浜聡子、主演女優は平川市の駒井蓮、ロケはオール青森ということで、制作開始時点から地元のマスコミに取り上げられ、盛り上がっていた。

 

 木曜日の一番目の上映ということ、まだコロナ禍であることなどで、二十名くらいの観客であった。席は一席ごとに空けてあり、他にもかなり感染対策がなされていた。物語の内容についてはネタバレなので喋らないが、評価としては星4つくらいで、まあまあ面白かった。特に素晴らしかったのは、主演の駒井蓮さんで、複雑な高校生の心理をうまく表現し、何より津軽三味線の演奏が上手であった。流石に最後のロングの演奏は、プロの演奏会のものだと思われるが、それ以外の演奏シーンは実際に弾いているように思われ。かなり時間を割いて練習したのだろう。

 

 さらにすごかったのが、津軽弁で、設定としては板柳町という近郊の町から弘前市の高校に通っている。弘前市の高校生に比べて、郡部の高校生の方が訛りがひどく、そうした違いをうまく表現しており、最初のシーン、弘前の高校でテキストの音読みで、先生からお前は相当、訛っているなあと呆れられるほど、青森県でも訛りの強い高校生として描かれている。テキストの音読で、訛るというのはイントネーション、音の強弱が違う。口をあまり開けないで、ゴモゴモしやべる、津軽弁にはそうした特徴もあり、映画のシーンでもあるように、高校生でこれほど訛りの強い学生は弘前でもあまり見ない。他の青森県出身の俳優、古坂大魔王やジョナゴールドの津軽弁が標準語に聞こえるほどである。津軽に住んで25年の私でもギリギリ、わかるほどなので、映画を見て真っ先に思ったのは、ひょっとするとこの映画は日本映画で初めての字幕付き映画になるのではという恐れであった。青森県以外の観客は果たしてわかるのであろうか、心配している。

 

 色々な経験、色々な人と出会うことで、成長する青春物語の典型であり、その微妙な青春のゆらぎを主演の駒井蓮さんはうまく表現していたが、ただこの映画が名作になるかといえば、何かが足りない。映画はカットの連続でなる芸術であり、こうした一つ一つのカット自体がもう少し魅力的になって欲しかった。青森空襲のカットなど必要ないし、もう少しカット、カットの美しさがあって欲しかった。確かに芸術作品でないので、それほど美術的な映像を求めているわけではないが、何これといったシーン、例えば、お盆のシーズンの禅林街や栄螺堂の内部など、色々な青森県の持つシーンが考えられる。また原作の越谷オサムさんは東京の人のせいか、板柳町に住む高校生が弘前に高校に行く設定は全く問題ないが、バイトに青森市に行くのはかなり厳しく、設定としてはおかしい。平日学校が終わってから青森市のメイドカフェにバイトに行くとすると、学校が4時に終わって、急いで弘前駅に行っても16:51か次の電車は17.40で、青森市に到着は17:4418:22となる。青森駅からバイト先まで15分かかるとなると、働き始めるのは6時から7時頃となる。帰りも20:44の青森発に乗って板柳に着くのが21:40、これが最終となる。つまりいくら遅くても8時半までしかバイトできず、実質のバイト時間は2時間程度しかなく、時給が1000円としても交通費を考えると、青森までバイトに行くことはなかろう。むしろ弘前市のメイドカフェの設定にした方が、定期が使え、学校が終わる5時ごろから21:14の最終電車の9時ごろまで4時間働ける。

 

 原作のいとみちは、ニの糸、三の糸もあるが、今のところ全国での上映館は45、予測興行収入が2500万円くらいなので、このままでは続編は難しい。“あなたはこの映画のセリフを字幕なしでわかるか”くらいのキャッチフレーズでマスコミに流すとか、話題を作って全国的に売りだす工夫も必要だろう。




 

2021年7月16日金曜日

子供の矯正歯科治療


 

 私も前期高齢者の部類になり、すでに年金ももらっている。そんなこともあり、長い期間の矯正管理を要する患者さんは現在、断っており、来院希望の電話をいただいた患者さんのご両親には申し訳ないと思っている。骨格性反対咬合の場合は、高校卒業まで、男性では20歳くらいまでみていく必要がある。なぜかと言うと上顎の成長は10歳くらいに終了するのだが、下あごの成長は男子で、18から20歳まで、女子で16から18歳くらいまで続き、ケースによっては咬合が変化して、反対咬合になる。そうなると3、4歳頃から18歳までとしても15年、みていく必要があるが、とてもその年齢まで診療所を続けそうにない。またでこぼこ(叢生)や出っ歯(上顎前突)でも7、8歳で来ても18歳まで、約10年はみていかないので、これも厳しい。そうした訳で、昨年から高校生以上の患者しかとらないことにした。

 それでも開業以来、25年以上、子供の患者を見てきたので、その経験から子供の矯正治療について考えてみたい。子供の治療の場合、永久歯が完成するまでの時期を一期治療、永久歯完成からの時期を二期治療となる。一期治療は、早期治療ともいい、矯正専門医からみると、一期治療はマルチブラケット治療による二期治療をいかに簡単に、あるいはより理想的に治療できるかのためにする治療である。そのため、基本的には二期治療を前提としている。ただ中には一期治療だけでほぼ理想的な咬合となるケース、二期治療が必要ないケースがある。頻度としては一期治療の約10-20%くらいである。それでは残りの80-90%は全て二期治療に移行するのかと言うと、この半分くらい人がマルチブラケット装置による治療を受け、残りは来なくなる。多少の問題があってもこれくらい治れば良いと考えるのだろう。例えば、反対咬合を主訴とした患者が。それが治れば、多少のでこぼこがあっても、それ以上の治療を希望しないのだろう。

 一般歯科の先生の中でも小児の矯正治療のみをしている先生も多い。逆に言えば、一般歯科の先生はマルチブラケット装置による治療はできないし、この方法の習得には大学病院矯正歯科か、専門医に5年以上務める必要があり、一般歯科医が習得するのは無理である。先ほど言ったように、一期治療のみで、ほぼ理想的な歯並びになるのは多めにみて20%、そしてある程度、患者はこれでいいと言う歯並びで40%、そしてマルチブラケット装置による治療が必要なのが40%と考えて良い。もちろん、中学生以降の患者さんは、即、マルチブラケット装置による治療となるので、一般歯科ではきちんとした治療はできない。

 つまり一般歯科で、子供の矯正治療をする場合、多めにみて60%しか治せないことになるし理想的な歯並びを求めるなら、20%しか治療できないことになる。この数値がどういう意味を持つかははっきりしないが、工業製品で言えば、例えば、双眼鏡の場合、世界最高の双眼鏡のスワロフスキーが60万円とすると、その性能の60%であれば、10万円以下、20%であれば数千円以下となる。これは金に換算した場合の例えであるが、一期治療しかできない一般歯科での矯正治療費が矯正専門医より高いのはありえないし、よほど安くなければ、あるいは理想的な歯並びを子供に求めるなら、これも矯正専門医に最初から行った方が良い。

 

 子供の矯正治療を受ける場合は

 

1.     セファロ、パントモ写真、模型などの矯正検査をしてもらい、きちんと今後の治療方針、治療期間、費用について説明を受ける。

2.     一期治療で治らない場合についても、きちんと説明を聞く。基本的に二期治療はマルチブラケット装置による治療となる。

3.     2で二期治療が必要な場合は、専門医を紹介すると言う場合は、専門医での費用は全く初診患者と同じとなり、一期治療費は無駄となる。返金が可能か聞いておく。

4.     でこぼこの場合、成人では、ほぼ70%は口元の突出感も考慮に入れると小臼歯の抜歯ケースとなる。子供のでこぼこの症例に非抜歯での治療を勧める場合、将来的に口元の突出感が気になる場合、抜歯治療をしてくれるか聞いておく。中には抜歯による矯正治療は、主義に反するとしてしない先生がいる。おかしな主義である。

 

 個人的な感想で言えば、子供の矯正治療費が数万円くらいであれば、ダメ元でやってみても良いが、20万円以上かかるようならわざわざ一般歯科で治療するメリットはないので、やめた方が良い。さらに言うと、矯正専門医でも内容とは無関係な値段をつけているところが多いので、数件回ってからどこで治療するか決めた方が良い。もちろん子供の治療の場合は、長い期間の通うことになるので、歯科医院の雰囲気や先生との相性も本当に重要であり、信頼のできる先生を探して欲しい。

2021年7月12日月曜日

昔の弘前大学医学部病院前の本町(1960年代)

本町医学部前の古い家

1の家の側面

本町、消防署近く 衛生湯



 このブログで昔の写真を集めていると募集したところ、早速、ある方から古い弘前の写真を多数、お送りいただいた。本当に感謝する。ただ本の方は、一応、散歩コースとして、一筆書きのように歩いていく構成を取っているので、本来は扱いたい場所であっても、文中の散歩コースから外れた場所がある。その一つが医学部前の本町で、昔は金木屋など大きな商家があり、それを主題として「金木屋物語」という本があるくらいで、是非とも本の中で取り上げたいところであるが、今回は省くことにした。

 

 お送りいただいた写真の中には、1960年代の本町の建物を写した貴重な写真がある。本来は本の中で紹介したいが、今回は上述した理由で載せられない。そこでこのブログで、紹介して少し説明したいと思う。

 

 二階建ての大きな家である。二階の屋根も高く、窓は前面の格子となって美しい。一階はかなりごちゃごちゃになっており、左から“T(3)2834”の小さな看板がある。何か小さな喫茶店のようである。真ん中は”カラープリント・引伸・複写 写真の店 三上カメラ店“という写真屋がある。映画のポスターがあるが、タイトルまではわからない。そして一番右の店には”Suntory snack ラモールの看板が見える。この時点で、”三上カメラ“、”ラモール“で検索したが、一件もヒットしない。そこで片っ端から古い写真を見ていくと、「弘前の街並み 88景 昭和30年」(山口寿、北方新社、平成4年)を見ると、本町の大きな町家によく似た家がある。一階には福士薬局、寿司枡金、などの店が入っているが、ただ二階の屋根、格子のからほぼ同一の建物と考えられ、間違いない。

 

 もう一つの写真は、屋根の形状などから、上記の町家の側面である可能性が高い。「本町略誌」(弘前本町会、昭和61年)に、この家はことが書かれ、同時に側面斜めからの写真も載っており、これによりもう一枚の写真もほぼ同定できた。明治20年代に永井養父太郎がこの建物を建て、旅館経営をしていたが、明治37年には廃業し、その後、松森町の宮川という人が薬屋をしていたという。昭和60年には正面玄関には張り出すような形で小さな店が新たにできているが、この頃はまだ建物があったのだろう。昭和10年の弘前市案内圖では「宮川薬店」となっていて、記述と一致する。ここまで整理すると明治20年代に、永井という人が旅館を経営したが、廃業となり、弘前衛戍病院ができた後明治37年以降は、宮川薬局となった。その後は一階が喫茶店、スナック、寿司屋、食堂などとなり、昭和60年以降になくなったことになる。

 

 三つ目の写真は、どこかの街並みの写真である。拡大すると「衛生湯」の文字が見える。衛生湯は、それまでの木造の湯船、床に代わりに、タイルを使った明るい銭湯として人気を集めた銭湯で、土手町にまずでき、その後の本町にできた。隣の“ガラクタ 古道具 高価買います 石田屋”の看板があり、本町の奥に、こうした骨董屋があるので、これはすぐに本町の奥の方の写真だとすぐにわかった。写真奥の方には消防署の見張り台がある。知人がここの銭湯を利用したと言うので、聞いてみると、同級生の親が経営しており、この銭湯の二階に住んでいた。入り口からトンネルのような通路を抜けるとそこが銭湯だった。写真奥に、見えるのは、昔の消防署で、今は道が広くなったが、当時が狭かったようだ。

 

 衛生湯の隣には「一戸建設」の看板のある古い家があるが、今はもうない。その隣には、今は日本料理店になっている坪田文庫の蔵があり、1960年代ではまだ白壁がはっきりしない。坪田医院の時代なのだろう。またその隣の隣のアート不動産、さらに隣の角地もかなり古い建物であることがわかり、この写真とほぼ同じ建物が今でもある。坪田家は大正14年に出火し、両隣と向かいの古道具屋を焼き、蔵だけが残り、この土蔵で坪田医院をしていた。写真の隣の隣、さらに奥の家もこのころ、昭和初期くらいの家かもしれない。ちなみに衛生湯は大正十二年に開業したことになっているが、洋風の建物で、とても銭湯のようには見えない。

 

 一枚の写真より様々なことがわかり、長い文章より写真の方が、情報量が多い。




 

2021年7月8日木曜日

歯科医院が足りなくなる、矯正歯科クリニックがなくなる

 



 これはあくまで地方の話、青森県弘前市のことだと思ってほしい。実は今後、10年ほどで弘前市の歯科医院は半分くらいになる。

 

 現在、弘前市の歯科医院数は10名くらいであるが、このうち60歳以上が半分以上いて、最近は70歳くらいで引退する場合が多いので、これに従えば、あと10年くらいで50名、半分くらいになる。一方、新たにできる歯科医はここ数年、年に一軒あるいは2年に一軒くらいの割合で、10年間で多くて10軒、少ないと5軒くらいしかない。ということは差し引き、10年後の歯科医院数は55軒から60軒くらいとなる。一番歯科医の多い年代は60歳以上で、ここがピークで、年齢が下がると減っていくが、引退する先生より開業する先生の方が少なく、20年後には3040名くらいになるだろう。


 ただ患者数がどうかというと、虫歯を持つ患者数は30歳くらいを境に激減しており、20歳くらいで言えば、半分から1/3の人は虫歯がなく、それ以外の人も虫歯は少ない。現状では、虫歯が多かった50歳以上が患者の大半を占めるので、10年後でもまだこうした年齢層は残っているが、次の世代の虫歯が減っているのを見ると、歯科医院にいく患者数も減っていくだろう。

 ただう蝕は減っても、歯周疾患は高齢化に伴い、患者数は増える。大まかに言って歯科医の患者は、虫歯に関係する患者が40%、歯周疾患の患者が30%くらい、親知らず、デキモノなど口腔外科関係の疾患が15%くらい、矯正歯科関係が5%、顎関節症などその他が10%くらいと思われる。虫歯が減って半分くらいになっても、その他のものは減ることはなく、歯周疾患は増加するし、また矯正歯科関係も少しは増加する。すると虫歯が20%、歯周疾患が50%、矯正歯科が10%、その他が10%とすると、全体では90%となり、今より患者数は若干減るくらいになると予想される。


 歯科医数が60%減り、患者数が10%減るなら、一軒あたりの患者数は1.5倍になりそうだが、現状を見ているとそうはなっていない。コロナ騒動のせいで患者数が減っていることもあろうが、多いところと少ないところの二極化が以前より著しくなっている。新規開業のところでも多いところでは50人以上の患者が入っているが、少ないところは10名程度のその差が大きい。

 近年、歯科大学の入学者の半分は女性で、男性に比べて開業する比率は少なく、また結婚する場合は旦那が歯科医という場合が多い。また男性についても、開業のリスクを恐れて以前ほど開業志向は少なく、勤務のままでいいという先生も多い。東京郊外では、歯科医師が数名いる大型歯科医院が増えており、先生一人の歯科医院ではなく、何人かの勤務医を雇った従来より大型の歯科医院が今後、増えそうである。医師の場合は、給料が高くて、なかなかこうした経営も難しいが、歯科医の場合は、給与が比較的安いこともあり、経営手腕のある歯科医は、こうした若くて給与の安い歯科医を雇い、何軒かのグループ診療をしているところがある。材料の仕入れや、研修、職員の雇用など効率的な治療や経営ができるため、今後、ますます多くなると思われる。


 こうした考えを進めていくと、開業医が減るだけでなく、個人開業はさらにへり、勤務医を主体とした大型のチェーン店が多くなってきそうな感じがする。一方、矯正歯科について言えば、日本矯正歯科専門医機構が始まることで、正式に認められた矯正歯科専門医は増加するが、その資格を取るには10年くらいかかりそうなので、それほど矯正歯科専門医の数が急速に増えることはない。青森県でも日本矯正歯科学会の認定医が10名いるが、60歳以上が5名で、青森県出身の若い先生で大学の矯正歯科講座にいる人はほとんどいないので、将来的には減るのではないかと思っている。また矯正歯科医の中でも自分のオフィースを持たずに、大型の歯科医院を何軒か掛け持ちする先生も多くなり、個人矯正開業医はもっと減るかもしれない。現在、青森県で一般歯科をしない矯正専門で開業している先生は6名(弘前の田口矯正歯科、八戸の中野矯正歯科クリニック、十和田のタカヒロ矯正歯科医院、青森の板垣矯正歯科、矯正歯科Kデンタルと私のところ)いるが、ほぼ私と同世代の先生、5名が60歳以上で、残りの1名も50歳以上となる。あと十年で若い先生が矯正歯科で開業しないと、1名しかいないことになる。さらにあと20年すると0名となる(板垣先生の息子が帰れば1名)。矯正歯科の患者は、アメリカの数分の一で、今後もさらに増加することは間違いないが、青森県では矯正歯科医院で治療を受けるのはかなり難しくなるだろう。








2021年7月7日水曜日

患者紹介について


 

 今と違い、2030年前まで、矯正歯科に来る患者の多くは、一般歯科から紹介されて来た。多いところでは、年間に10名以上紹介してくれるところもあったが、近年は、そうしたことも少なくなり、患者からの紹介、あるいはインターネットをみて来る患者が多くなった。

 

 もともと矯正歯科はアメリカのシステムを取り入れているために、日本人からすれば、そこまでするのかということも多い。例えば、アメリカでは、従業員にも名刺を持たせ、知り合いや友人に自院での矯正治療を勧め、もしその患者が実際に治療することになると、治療費の一部をボーナスにする方法をとるところがあった。そのため、従業員を雇う時には、交際範囲の広い、人脈の多い人を雇い、給料よりボーナスの方が多いこともあった。これの発展型が、患者にも、別の患者を紹介してくれた場合には、プレゼントする、子供の場合はおもちゃをあげる、ようなことをするところもあった。また紹介してくれる一般歯科医院のスタッフと先生を高級レストランのランチに招待するようなこともよく耳にした。資本主義国、アメリカでは、歯科も一種の商売で、特に医療という制限は少なかったからである。


 一方、ヨーロッパはどうかというと、ここまで商業化はしていないが、飛び込み患者は少なく、ほぼほとんどの患者が一般歯科医よりの紹介という場合が多い。そのため、矯正歯科医のオフィースは、玄関に名前のプレートがあるだけの普通のビルや民家で、誰も歯科医院があるとがわからないようになっている。こうした場合は、よく紹介してくれる歯科医院には、連絡を密にする意味もあるが、頻回に訪れ、お菓子や食べ物の差し入れをしたり、家のパーティーに招く。


 それでは、日本はどうかというと、30年くらい前まで、一人の患者を紹介すると、そのバックマージンを紹介元の歯科医院に戻すようなこともあった。ただこれはあまりに倫理的に問題があることと、医療法に触れるので、今はそうしたことは一切ない。ただ常識の範囲内で、お中元やお歳暮を贈ることはある。それでも以前は、新患のほぼ90%は一般歯科医よりの紹介であったが、最近では、虫歯も少なく、特に若い人はかかりつけ歯科医がいないので、インターネットや友人に聞いて来院することが多く、一般歯科医からの紹介も20%以下になっている。そのため、勢い日本でも、広告に力を入れる矯正歯科が多くなっており、中には広告法に違反するような問題のあるところもある。


 こうした一般歯科医よりの紹介が少なくなり、インターネットにより選んで来院するとなると、どうしても矯正歯科のHPの良し悪しに左右されがちとなる。そのため各医院も自院のHPに力を入れる。ただ2018年より医療広告ガイドラインができ、様々な規制ができた。そして、日本矯正歯科学会でも、今度できる日本矯正歯科専門医機構でも、認定医や専門医の更新の際に、HPをチェックして、少しでも違反があれば修正も求めるようになっている。一方、こうした学会に入っていない歯科医院でも、あまり広告ガイドラインを遵守しておらず、かなり問題となっているケースも多々ある。ただ患者からすれば、こうした広告ガイドラインなどは知らないため、良いことばかりを強調している歯科医院に行くこととなる。


 そういう意味では、一般歯科医は、地域の問題のある歯科医院を知っており、もし問題のある矯正歯科に紹介すれば、結局は紹介したところの責任も出ているために、基本的には信頼の置ける矯正歯科医院を紹介する。患者さんの中には、どうしてそんなところばかり行くのかと思うほど、問題のあるところばかり、行く患者がいる。まずかかりつけ、あるいは知人に聞いて評判にいい歯科医院を訪れ、そこから紹介してもらいのが、やはり一番良いように思える。あとは、院長の履歴を見て、大学病院の矯正歯科学講座に勤務経験がなければ、いくら調子の良いことを言っても、こと矯正については素人と言える。やめた方が良い。


 

2021年7月5日月曜日

昔の写真を募集しています。

森町の忍者屋敷?



 現在、新しい本、” 弘前歴史街歩き あの場所。あの人、あの時代“(仮題)を出そうと執筆中である。すでに9万字くらい書いたが、もう少し書いて、ページ数にして150ページ、写真は100枚くらいを予定しており、全部で200ページくらいの本にしようと思っている。脇道にばかり外れており、書いていて、これでいいのかといつも思っているが、とりあえず大まかに書いてみて、これから修正、補足していきたいと思っている。

 

  同時に、写真の方も集めているが、古い写真がなかなか集まらない。著作権法では、50年過ぎた写真は使えるので、古い絵はがきや本の写真は使えるが、1972年以降のものについては、版権が生じて、許可が必要となる。一部の写真については、幾らかの利用料を払えば、本への掲載が可能となるが、そうでない一般の本については、著者まで連絡して、許可を得るのはなかなか難しい。このあたりは自分自身、あまり明確には考えてはおらず、ブログに掲載する写真では、こうした版権を無視して勝手に使っている場合も多い。ただ価格をつけて本を出版する場合は、もうけが全くなくても、できれば著作権の許可を得たいと考えている。

 

 そこで家内やその親類、あるいは従業員にも古い写真ないか、尋ねているが、不思議なことに風景だけ、それも地元、弘前の写真はほとんどないという。確かにその通りで、尼崎の昔の家、診療所も、その家の前で、家族で撮った写真はたくさんあっても、診療所だけを撮った写真はない。

 

 今はデジタルで何枚撮っても、費用はかからないが、昔は24枚、あるいは36枚フィルムを買うと、フィルム代以外にも現像代とプリント代がかかり、見慣れた近所の風景を写真に撮る余裕はない。ほとんどの写真は、人物が写っているが、風景は観光に行ったところのもので、弘前市の風景を写すことはない。いつも見慣れた風景を高い費用を出して写真に残そうとは、大概の人に思わなかった。当時、街の風景の写真を撮る人は、高いフィルム代、現像代、プリント代を支払っても撮りたいと思う人、恐らくプロあるいはアマチュアの写真家であろう。昭和40年頃でそうなので、もっと写真代が高かった戦前の風景写真、それも町のありふれた街並みや建物を写すことは少ない。絵はがき、古い写真集を中心に集めてみたい。

 

 こうしたこともあり、古い弘前の写真集を見ることが多い。「写真で見る弘前 故郷のあゆみ 弘前I II III」(山上笙介、津軽書房、1981)は、多くの写真を集めていて楽しい。この写真集には、遊郭の芸妓、女学校の生徒など、明治、大正、昭和に弘前の女の人が写っている写真が多数ある。他の県のこうした写真を見ることがあるが、津軽の場合は、美人が多い。例えば、県立弘前高等女学校の大正14年の“運動着の高女生”とついたタイトルの写真を見ると、半分以上の生徒はかなり綺麗な顔をしているし、その写真の横にある“冬の長いマントとショール”(大正12年の高女生)の女性は、AKBでも通用する。他の集合写真を見ても美人の割合が高く、昔から津軽には美人が多いことが、こうした古い写真からもわかる。ただ身長についてはおしなべて低く、これが現代と一番違う点で、160cm以上の女性は、昔はかなり少なかったが、平成26年度の統計では青森県女子の17歳の平均は158.5cmとなり、160cmどころが170cmを超える女性も少なくない。栄養の向上が戦後の身長の増加を招いたのだろう。

 今話題の森町の忍者屋敷の古い写真が載っていたので、無断で引用する。私自身は、この忍者屋敷については懐疑的であるが、この写真のコメントにも“忍術家の旧宅と伝わる古い家屋”とのコメントが入っている。周りが木々に囲まれ、藁葺きがトタンになっただけで変化はない。

 

 以下の写真を探しているので、もし個人撮影の写真がありましたら、ご協力ください。

 

1.     昭和4050年代の弘前駅前、代官町、土手町の写真

2.     次郎兵衞堤の水をたたえた頃の写真

3.     紀伊国屋書店、今泉本店の写真

4.     昭和4050年代の一番町、ハイローザの写真

5.     上白銀町にあった当時の旧東奥義塾高校の写真

6.     城内にあった弘前市営野球場、図書館の写真

7.     昭和60年以前の和徳大通りの写真

8.     旧弘前魚市場(一中の横)

9.     今は無くなった古い喫茶店

 

本からのコピーでない、個人で撮影したものに限ります。これ以外にも古い弘前市内の風景写真を募集しています。スマホでプリントを撮影し、添付して下記のアドレスまでお送りください。掲載された場合は、印刷した本を差し上げます。

 

                  送り先:    hiroseorth@yahoo.co.jp                     広瀬寿秀  



おまけ:最近発見したここ20年は聞いていない曲、懐かしい





 

2021年7月2日金曜日

明治10年頃の弘前絵図 2

 

元の最勝院

魚市場付近



 その後も、最近入手した明治初年の絵図について調べているが、書き込みが少なく、どうした目的で作ったかわからない。政府あるいは弘前(市)から依頼されて作ったものか、あるいは個人的な興味で作ったものか、わからない。明治になって作られた手書き絵図は、明治二年、三年が二枚、そして明治四年の4枚の絵図が確認されているが、いずれも士族の邸宅がメインで、町家については、赤く塗りつぶし、何も描かれていない。もちろん、誰も住んでいないということでなく、多くの商店があり、人々が住む家もあったが、こうした絵図では記載されていない。

 

 もう一つの明治八年の弘前地籍図は、馬屋町、新町、細越など下町の詳細な戸主を調べた絵図で、おそらく弘前で初めて地番がつけられた絵図であろう。これには町人、職人も含めた全ての戸主名が記載されており、税金取り立ての基礎的資料として地籍を作り、そのために作製されたと思われる。現物は見たことがないが、若党町などの仲町のものもあるようだが、不明である。

 今回の絵図は、かなりラフな書き方で、もちろん誰かに依頼されたものであっても完成品ではない。それでは明治二年弘前絵図などのコピーかといえば、道や挿絵も違い、個々の戸主の名前も微妙に異なる。姓は同じでも名前が違う、父親の名であったものが子供の名になっており、絵図を作るにあたり、新たに調べたかもしれない。家の玄関に名札を掛けるのが一般化したのは昭和になってからで、明治初期では名札はなく、誰かに聞かなければ戸主の名はわからない。

 

1.  東照宮付近

 この絵図によれば、町年寄りの松山家の隣には、仕立物師扇屋と三国屋多三郎の名がある。南側には石岡専助、増田戌五郎、石岡兵之進、上田善太郎の名がある。さらに進むと、「野清 関東屋 吉田吉次郎」、「大善廣幸」、「大神」、「今井」などの名を見る。この通りの北には。東照宮、薬王院、愛宕神社、“桃井作渡、神楽殿”とある。火事の神様、愛宕神社と東照宮は、全国でもよく見られるコンビであるが、弘前ではまず愛宕神社がいつも間にかなくなり、さらに東照宮は2013年に借金のために破産宣告し、神社とその敷地が競売され、寛永5年にできた重要文化財の本殿のみが弘前市が取得してすぐ近くの元弓道場に移築された。

 江戸時代、朝陽橋を超えたところには明治二年弘前絵図では「御収納倉 二ヶ所、白米倉 一ヶ所」、そして小路を挟んで向こうには「廣小路と称す空地」、「和徳御収納蔵 東掛 北掛とに区別し、倉稟八ヶ所月々藩士へ米を渡す所」の記載がある。場外の米倉庫でも大きな所である。この明治初期の絵図を見ると、御収納蔵のところは3箇所の蔵のような絵が描いてあり、廣小路は「東新丁」、和徳収納蔵は「東長や」と描かれ、周囲には7つ蔵のような絵が描かれている。明治71月の二番小学としてできたのが和徳小学校で、最初は米倉を校舎として使ったとされ、おそらく絵図での「和徳収納蔵」、「東長や」の所であろう。そして、和徳小学校の一部と「空地」、「東新丁」を借り受け、明治18年に設立したのが弘前魚市場である。

 

2)最勝院

 最勝院は、江戸時代、現在の八幡神社と熊野神社の間の広大な土地にあった。大きな伽藍、池、そして塔頭に囲まれた一つの寺町と思われるほどの威勢であった。ところが明治になり廃仏毀釈運動の影響を受け、ここを全て捨てて、桶屋町の大円寺のところに移動することを余儀なくされた。伽藍も全て打ち壊されたのか、昭和初期まで何もない。田畑のような土地となった。今回の絵図では、大まかな下手な絵が描かれており、また12の塔頭名も描かれているが、順番は違う。ただ明治二年弘前絵図を見ても、通用門、唐門、中門、表門の4つの門があるが、今回の絵図でも4つの門が書き込まれ、唐門、中門が大きいことがわかる。奥には大きな屋根の本堂が描かれている。おそらく最勝院の姿が描かれた初めての絵図と思われる。以前いただいた「最勝院史」の大部の本でも、そうした絵はなかったことから、下手な絵ではあるが、江戸時代の最勝院の本堂を描いた唯一の絵と言ってもよかろう。さらに弘前八幡宮には“竹内勘六 寄進 稲荷宮”とある。竹内貫禄は、富商、竹内家で代々つける名前で、誰が寄贈したかは不明であるが、神楽殿。天神堂などの記載がある。天神堂は末社の天満宮のことだろう。

 

 他にも何か製作年代を決めるようなものがないか探したが、今のところ、そうしたものはない。それでも、流石に明治20年以降となると、ほとんどの藩士の邸宅は、商家などに変わってしまい、こうした絵図を作成できない。おそらく明治十年前後のものかと思う。

 


2021年7月1日木曜日

弘前の喫茶店

1977年頃の中土手町

旧弘前図書館が喫茶店、下宿としてあった



 弘前市は流行に敏感な都市で、東京で流行ったものがすぐに入ってくる。弘前で最初のカフェは、銀座街の慈善館に近いところにできた「カフェ オーロラ」で大正8年にできた。パン専門の喫茶店で、その後は、下白銀町のローソン弘前公園店のところの道を東に少し行ったところに転居し、昭和10年の弘前案内図にも「オーロラ食堂」の名がある。その隣にはアイスや洋菓子の「パリスタ」がある。さらに大正12年には慈善館前に「ライオン」が開業し、その後、昭和初期には多くの代官町にカフェができ、旧制弘前高校の生徒に人気があった。



 戦後になると、まず昭和30年ころからジャズ喫茶が全国で広まった。弘前で多くのジャズ喫茶店ができ、1977年に発行された” Key worldof Hirosai”(DEAD 弘前編集分室、1977)を見ると、ジャズ喫茶として11の喫茶店名が載せられている。「オーヨー」、「愚羅馬亭」、「KEN」、「JEAN」、「仁夢」、「すが」、「アヴェント」、「セコンド」、「バードランド」、「JAY MAC」、「サッチモ」がある。ついでにいうと「青い花」(BGM)、「キャヴァーン」(Blues)、「ナッシュビル」(Country)、「ひまわり」(Classics)、「ユパンキ」(Folkrore,「萬燈籠」(Rock Folk)、「Jailhouse 33 1/3」(Rock,「ヨーク」(Folk)などがあった。このうち現在残っているJazz喫茶は、代官町に1975年に開業した「Jazz in 仁夢」(今は和徳町)、新鍛治町に1971年に開業した「Suga」くらいしかない。代官町の「オリーブ」、新寺町の「れもん」はもう少し遅い開業だったのかもしれない。「仁夢」には、私は初めて弘前に開業のために来た1994年に本町の一戸歯科の先生に連れて行ってもらった。弟さんが仙台でプロのサックス奏者だったので、ジャズが好きで、この店に通っていたのだろう。私もジャズは好きで学生の頃はよく聞いていたが、流石にジャズ喫茶に行く世代ではなく、この店に来たのもこれ一回切りであった。


 1970年頃になると歌声喫茶、ジャズ喫茶に代わって、純喫茶が流行ってきた。当時の弘前市の純喫茶あるいはレストランとしては、レストラン「セーブル」(松森町)、喫茶「スワン」(土手町)、「ボルドー」(土手町)、「再会」(百石町)、「めとろ」(本町)、「マロニエ」(本町)、「微苑」(新寺町、朝日会館内)、「ラ・セーヌ」(銀座街)、「微」(代官町)、「田園」(駅前)があった。また百石町と中央通りの十字路にフランス料理「グリル マツダ」が、その支店、「ニューマツダ」が下土手町にできた(1970422日、陸奥新報)。

 1980年代になると、弘前の喫茶店の最盛期で、この頃には650軒の喫茶店があったという。流石に今は少なくなり100軒程度になっている。1970年代、1980年にできた喫茶店で現在あるには、「セーブル」(1973,松森町)、「煉瓦亭」(1979、土手町)、「可不屋 葡瑠満」(1979、一番町から下白銀町)、「ブルーライト」(1980、土手町)、「かわしま」(1973、土手町)、「きりまんじゃろ」(1979、北川端町)、「壱番館」(1976, 一番町)、「ピンクベアー」(1975, 桶屋町)、「カフェーDo」(土手町、パレスホテル、1983)で、カレー、パフェー、ナポリタンなどが美味しいと多くのファンを持つ。ほとんどの店は、すでに40年以上の歴史を持つ老舗喫茶店で、昭和の色合いを色濃く残したレトロな店である。ただ喫茶店は、夫婦で個人経営する場合が多く、後継者がいないと閉店する場合が多いし、スターバックスコーヒーなどの全国店も多く弘前に進出してきおり、なかなか経営も難しいであろう。


 周りの50歳以上の女性に聞くと、中土手の花邑の二階の喫茶店のことや、朝日会館内にある大型で豪華な喫茶店「微苑」のカスタードプリンが美味しかった、一番町の工藤パンの喫茶店のホットケーキがうまかったなどの思い出が尽きない。私自身、青春時代をこちらで過ごしたわけでないので、昔の弘前の喫茶店についてはまったくわからないが、話を聞いているだけで、楽しいし、実際、多くの店がなくなってしまったが、それでも今でも健在な店も多く、それは幸せなことでもある。