2021年4月20日火曜日

弘前市北横町 遊郭跡 昭和47年 その2

 



















弘前市北横町 遊郭跡 昭和47年

 







 いつも行っている弘前市の古書店で、店主と話していると、ちょっと見せたいものがあると言われた。取り出してきたのが、白黒ネガフィルムが入った袋で、そこには2枚ずつ切り取られた白黒ネガフィルムが2030枚ほど入っていた。ネガフィルムは反転してプリントをしないとわからないが、透かして見ると建物や芸妓さんが写っている。袋には“昭和47年 北横町遊郭”の文字が入っている。店主に聞くと、新寺町に住んでいた町田さんから出たものという。町田さんは弘前ロータリークラブで面識があった方で、郷土史、とりわけ風俗史に詳しい方で、弘前に住む誰かの名前を言うと、どこの誰の親戚で、前はこんな仕事をしていて、こんなエピソードがあるといった具合に本当に何でもよく知る、生き字引のような人であった。

 

 そこでネガフィルムのデジタル化する方法を検討した。昔、買った安いフィルムスキャナーがあるが、解像度が恐ろしく低いのでこれは使わず、専門医試験の時に使ったポジフィルムをデジタル化する方法を用いることにした。まずニコンのスライドコピーアダプターを手持ちのタムロンの60mmマクロにステップアップリングを介して装着し、ライトボックスを背景にオートで撮影する。ピント合わせはなかなか難しいので、これもオート設定で撮影する。フィルムのスライドマウントへの固定は、あるブログにマウントの突起を削れば使えると書いていたので、この方法をとった。50枚くらいのネガフィルムは20分くらいで撮影できた。撮ったデジタル画像を今度は反転して見えるようにする必要がある。カメラを買った時についてきたニコンの画像ソフト、CapututeNX-Dを特殊な使い方、トーンカーブを変更することで画像を反転できる。全てのデジタル化したネガフィルムをこのソフトで反転した。さらに使い慣れたアップルの写真ソフトでトリミングし、ワードに貼り付けて印画紙にプリントした。

 

 出来上がった写真を見ると、昭和47年(1972)ころに弘前市北横町に残っていた遊郭だった頃の建物が写っている。現在はこうした建物は一切ないだけに貴重な写真となろう。また芸妓さんの写真も30枚くらいあるが、これは不思議な写真で、何かの雑誌、新聞から切り抜いた芸妓さんの記事を撮影したものである。どこかで見た写真と思い、記憶を手繰ると、昭和57年から陸奥新報で連載された斎藤栄司著「津軽紅灯譚」に載っていた写真と思われる。元は大正から昭和にかけて発刊された幻の茶太楼新聞の記事である。当初は、斉藤さんが、どこかで見つけた茶太楼新聞の写真を撮り、それを新聞の連載に使ったと思っていたが、それ以前の昭和47年に町田さんが、茶太楼新聞の切り抜きを撮影していたことになる。「津軽紅灯譚」は本になっておらず、弘前図書館に新聞記事のコピーがバインダーに入れられているので、一度確認する必要がある。同じものであれば、資料的な価値は少ないが、「津軽紅灯譚」からのコピーでないので、町田さんの撮った白黒写真を公開しても問題はないと思われる。このブログで一部を公開する。

 

 

 

 


2021年4月14日水曜日

戦闘機、爆撃機が高すぎる 純金と同じ?

 

世界一高い爆撃機 2000億円




世界一高い旅客機  エアバスA-380 一機500億円



新国立競技場   約2500億円


 ある本に最新のジェット戦闘機は高額で、ほぼ純金と同じくらいであると書かれていた。流石にこれはないだろうと思ったが、調べてみると全く嘘とは言えず、驚くほど高いことが判明した。

 

 もっとも高い戦闘機、爆撃機は、アメリカ空軍のB-2爆撃機で一機の価格は約2000億円、空虚重量が71.7トン、71700kgなので1kg279万円となる。現在、金の価格はグラムで6825円と高いので、1kgでは683万円で、倍以上となる。またF-22ラプターは350億円と言われ、空虚重量19.7トンで割ると、1kg127万円となる。ただ日本が購入しているF-35についても一機あたりの価格は116億円であるが、その維持費は370億円で、合わせると486億円かかり、1kgでは366万円となる。同様な計算、すなわち、維持費が購入費の3倍かかると考えると、B-2爆撃機は1kg1116万円、F-22508万円となり、B-2は金以上、B-22は金と同等と考えてもよかろう。

 

 第二次世界戦争中の零戦の一機あたりの生産費は156787円で、現在の価格に直しても16000万円程度であり、当時の97中戦車と同じくらいであった。ちなみに最新戦車、10式戦車の価格は9.5億円で、B-35の本体価格の1/70以下である。安いと言われるスウェーデンのグリペンや新型のF-15EX100億円以上かかることから、以前に比べて戦闘機の価格上昇が著しい。ロシアの戦闘機も一機あたりの価格は50億円程度で欧米の機体に比べて安いが、エンジンの寿命が短いのでトータルコストとして280億円以上かかるとされている。中国の戦闘機についてはわからないが、それでも安くはない。

 

 第二次世界大戦では、ドイツのメッサーシュミットBf109だけで35000機、零戦は11000機、イギリスのスピットファイアーが23000機生産している。現在のジェット戦闘機B-3510000機揃えるだけで、本体価格で116兆円かかる。維持費も入れると486兆円というすごい数値となる。日本の国家予算のほぼ五年分に当たる。もちろんこうした数の戦闘機を持つことは絶対に不可能である。アメリカの最新鋭の空母、フォードの建造費は14000億円、維持費は年間500億円以上、また搭載機数は75機以上で、それだけで1兆円以上、合わせて空母1隻と搭載機でしめて24000億円となり、維持費も年間1000億円以上かかるであろう。

 

 こうした値段をみると、一つの戦争で500機以上の戦闘機、爆撃機、2隻以上の空母を失うと、それぞれ5兆円以上の損失となり、戦争を継続できない恐れがある。第一次、第二次界大戦のような数年も続くような長期戦争はもはや財政的に不可能である。

 

 さらに戦闘機の高騰のため、各国でも保有機数がかなり少なく、ドイツでタイフーン戦闘機149機とトーネード攻撃機が89機の計238機、フランスもミラージュで260機くらい、イギリスで200機くらい、ノルウエイはF-1648機、スイスはF/A-1833機、スペインはタイフーンなど89機くらいであり、F-15201機、F-291機、F-35,17機の計317機を持つ我が国は戦闘機数としては多い方である。第三世代以上の戦闘機で言えば、アメリカ、ロシア、中国、インドに次ぐ機数である。

 

 第二次世界大戦時の零戦の価格は、現在の価格にすれば16000万円、B-35に比べて本体価格で1/70、維持費も含めると1/300と安く、価格だけ考えれば、B-3510機撃墜されれば、零戦3000機撃墜されたことになり、恐ろしくて戦争もできない。ベトナム戦争、ラインバッカー作戦では、5ヶ月でベトナム軍63機、アメリカ軍124機の損害が出たが、現代戦では、これだけ被害が出れば、もはや戦争継続も厳しく、こうした作戦も難しい。あまりに戦闘機、爆撃機が高すぎて戦争ができないというおかしな状況となっている。

 





2021年4月13日火曜日

ディスカバーニッケイの掲載されました。

 


 先日のブログでも紹介しましたが、全米日系人博物館が主催する“ディスカバーニッケイ”に投稿していた記事が、掲載されました。2017年に出版した“須藤かくー日系アメリカ人最初の女医—”をコンパクトにまとめたもので、第1部、第2部に分けて掲載されています。

 

 季刊誌“横濱”の2021年新春号に掲載されていた斎藤多喜夫先生の“横浜人物誌・特別編—その4—共立女学校出身の女医 須藤かく”には最近、斎藤先生が横浜開港記念館で発見した須藤かく、阿部はな、ケルシーの写真が掲載されています。斎藤先生に連絡すると、最近、日下部金兵衞のコレクションで見つけた写真だそうです。先生から横浜開港記念館の複写請求、引用許可の方法などを丁寧に教えてもらい、送られてきたCDにはケルシーの兄のいるフェアーポートで撮影した写真が入っていました。掲載した写真以外にも須藤と阿部が一緒に写った写真もありました。

 

 日系アメリカ人の多くは2世、3, 4世、5世で、日本語の記事は読めないので、何とか日本語の記事だけでなく、英文にも翻訳しようと考えました。ある程度、ラフに訳して、それを知人のアメリカ人教師に見せて、最低限の修正をしてもらいました。その後、ディスカバーニッケイの編集部に送ると、本当に丁寧な校正をしてもらいました。おかげでぶつ切りの文体が、滑らかに読みやすいものになり、大変助かりました。英文に関しては、どれが正しいのかはわかりませんので、修正された箇所はそのまま変更しました。本日、知人のアメリカ教授に見てもらうと、いわゆる研究論文や本の文体ではないが、一般読者には見やすい文体になっていると褒めていただきました。

 

 内容は大きな変更はなく、元々は生粋の日本人の私が書いているため、かなり読みやすい英文記事だと思います。早速、お世話になった在住アメリカの友人に、英文記事がディスカバーニッケイに載っているので、見て欲しいというメールを送りました。特に須藤かくの妹の孫である、フランシス・オガサワラさんには先に本を送りましたが、日本語はできないようでしたので、今回のディスカバーニッケイの英文記事を是非見て欲しいと思っています。またシンシナティー美術館の東洋部門主任とホウメイさんとその友人、ナンシーさんにはある程度の本の内容はメール、訪日した折に、口頭で説明しましたが、うまく伝わらなかったと思い、今回の英文記事は理解に役立つものになるでしょう。

 

 それにしても、こうしたウエブマガジンも、まず原稿を集め、それを編集者がうまくまとめて修正し、そしてマガジンに載せる、簡単そうに見えて、難しい仕事だと思います。さらにこのマガジンでは日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語で原稿を掲載しており、必要あれば、編集の方で、翻訳もしているようです。実際、私の記事も、英語の元原稿があったとはいえ、本当にうまく翻訳されており、編集部の実力を知ることができます。優秀な編集員です。

 

 成田一家については、青森県の出身であることは、各種の書類から確実ですが、青森のどこの生まれであるかはわかっていません。渡米した時に成田やそきち、まや夫婦の上の二人は長女マヤは15歳、長男10歳でしたので、日本の小学校に行っていたと考え、弘前市の小学校、朝陽小学校、和徳小学校、時敏小学校の卒業名簿から探していますが、今のところ該当者がいません。もう少し範囲を広げて探そうと思いますが、早い時期に青森から横浜に移り、そこの小学校に行っていた可能性もあります。ただ士族の娘、須藤かくの妹と結婚したことから、成田やそきちも士族あるいは卒族の可能性も高く、その線からもさらに調べていこうと思います。さらにアメリカへの渡米に際する査証の記録が日本外交資料館にあると思われますので、一度、調べに行きたいと思っています。

 

 

http://www.discovernikkei.org/ja/


2021年4月9日金曜日

弘前藩 御馬場

 

明治二年 馬屋町



平成30 年に、高照神社内に「高岡の森弘前藩歴史館」ができ、それに併せるように神社内にあったとされる馬場の発掘調査が行われ、土塁なども含めて復元された。馬場の大きさは、長さ156m, 16mで、最近ではここで流鏑馬などの競技が行われている。流鏑馬などの祭事を神社に奉納した馬場であり、普段、弘前藩士がここで馬術の練習をしていたわけではない。

 

弘前藩士の主たる馬術の練習場は「御馬場」であり、その詳細は不明である。御馬場は三の丸、東側、現在の緑の相談所前にあった“外御馬場”があるが、主体は馬屋町にある“御馬場”である。この後馬場について、明治二年弘前絵図および明治六年弘前地籍図よりその規模を推察してみよう。

 

場所は、現在の弘前市馬屋町19から22番と弘前工業高校の西側、食堂、プールのある区画である。明治二年弘前絵図では、馬場西側に、北の方から、“馬扱ノ詰所”、“馬庭”、“馬術見分所”などが並んでおり、その奥には“下役 八戸宗太郎”、“青沼春吉”、馬役木立要吉“、”同 奈良兵吉“、”下役 竹内喜作“、”馬役 有海登“などの名がある。さらに馬場に面した(玄関が馬場にある)東側には”大津屋九左衛門馬屋飼料取扱所“があり、その東には”大津屋九左営門借地“とある。御馬場を中心として馬役の藩士を配置し、そこで馬の管理、飼育、調教なども行なっていたのだろう。

 

これが明治六年になると、馬場の西側の詰所、馬庭などの大部分は“青沼春吉”、“木立要左衛門”、“有海栄作”の大きな敷地となり、わずかに“八戸太郎”と馬場内の一部に“工藤主膳”、これは工藤他山の私塾、思斎堂である。また大津屋の敷地は弘前の大商人“今村九左衛門”とそのままである。

 

御馬場に話を戻そう。5間2尺(9.4m)か6間2尺(11.8m)の幅の3つの馬場が、幅2間2尺の2つの土居(土塁)で分けられている。土塁の横に記された数値は、長さが93間(167m)となっているが、青沼、木立、有海の敷地幅を足すと179(321m)となり、馬場の長さは300mくらいと推測される。土塁の高さは不明であるが、高照神社の復元土塁から高さはそれほどないと思われる。御馬場の大きさは、幅10mくらいの3つのレーンを持つ、幅38.5m、長さがおよそ300mの規模と推測される。高照神社の馬場よりかなり大規模なものだったことがわかる。さらに3つのレーンのうちの真ん中だけは、“西側土居内官地”となっているが、左右は馬屋町となっている。御馬場の北側は3つ目のレーンが今の埋門に続くが、その西側は馬場から土塁が延長し、さらにその奥には柵が設けられている。今は西堀のボート乗り場に行く道ができているが、当時は侵入禁止となっていた。幕府の馬場でも大きな高田馬場が、東西200間、南北25間であったが、弘前藩の馬場もそれよりは小さいがかなり大きな馬場であった。また3つのレーンを持つ構造も似ている。

 

御馬場のある馬屋町全体を見ていくと、西側、南側は西堀から続く水路に囲まれ、東側には今はなくなった城への登城口があり、その上には大きな柵、門が設けられている。また北側には埋門があり、その周囲には土塁がある。こうしてみると馬屋町自体が一種の出城のような場所であり、土塁で区切られた3つのレーンはいざという時には土塁を高くして敵の侵入を防ぐ目的があったのかもしれない。また今の西堀の南側はすでに埋めたてられ、家が立っているが、明治六年の絵図では中洲のようなものがあり、対岸の石郷岡、山形、佐野、萢福の土地となっている。間が水路にようになっているが、意味がないように思えるのだが。

 

現在、この地域には弘前工業高校があり、その敷地の大部分は、元は“大津屋左衛門”すなわち今村九左衛門が馬のために管理していた土地と御馬場の一部が使われたことがわかる。また旧御馬場については周囲に家が建ちならんでいるが、昔はここに馬場があったかと思うと、ほぼ直線の道路が100m以上続く道から昔のイメージが思い起こすことができよう。






明治六年の馬屋町



2021年4月8日木曜日

バイトの矯正歯科医


  私がいた鹿児島大学歯学部矯正歯科では、医局員のバイトは中止していた。というのは医局員が矯正治療のバイトをすると、途中で中止できず、誰かが継続してバイトしなくてはいけないからだ。ただ大学院生は無給のため、バイトが必要となる。この場合も必ず、矯正治療をするな、一般歯科のバイトをするように、万一そこで矯正治療をしてもその後始末はしないと注意を与えた。その後、矯正歯科専門で開業するOBが増えたこともあり、OBのところでのバイトのみ矯正治療はしても良いことになった。現在の医局の状況を見てみると、多くの大学院生はOBのところで働いている。

 

 一方、私立大学の場合、矯正歯科ではなかなか有給の助手や講師になれず、給料の良い一般歯科での矯正治療バイトが普通であった。一回行くと十万円くらいのバイト代がでた。月に一回としても二軒バイトすれば20万円で、何とか生活できる。ところが矯正治療の宿命で、途中で辞めたいといっても後任が決まらなければやめることができない。宮崎で開業している知人も、大学でバイトしていたところでの治療のために10年くらい、東京に出張していた。最後の二年くらいは無償で残りの患者の治療をしていた。こうしたケースは非常に多い。開業しても前のバイト先の治療をしているケースは、ごく普通のことである。

 

 矯正歯科医のないところであれば、月に1回でも矯正歯科医が来てくれると、患者にとっては便利である。ところが弘前のように専門医が3軒もあるところであれば、こうした歯科医院に行く必要性はかなり低い。まして月に一回で、来院日も決められ、トラブルになった時に対処も難しい。以前は、東京から来る矯正歯科医であれば、玄関に“東京から来ている矯正専門医”と宣伝できたが、今時そうしたありがたみもない。さらにバイトに行く矯正歯科医からすると、自分の医院の休みの時に遠くにバイトに行くのは面倒である。

 

 今のバイト料はいくらくらいわからないが、東京から来てもらうなら交通費や宿泊費も含めるとかなりの額となる。それを支払うとなると、月一回としても年間の矯正患者数は20名以上欲しいところである。もちろん他院からの紹介はなく、自院の患者の中から矯正治療をするから、もともと多くの患者が来ている必要がある。さらに今時は相談に来る患者で、実際に治療するのは半分くらいなので、年間、自院に40名以上の矯正患者が来るのはかなり難しい。おそらく矯正歯科医のバイトに雇っている一般歯科医院では、それほど経営的にプラスになっていないであろう。

 

 こうしたこともあり、最近は一般歯科で矯正歯科医をバイトに雇うところも少なくなり、逆に医局員や大学院生も給料よりも専門医のところでバイトした方が勉強になるために、ここを希望する。私も開業する一年前に一般歯科で勤務したことがあり、ここでは矯正治療を行なっていた。ところが歯につける矯正器具、ブラケットにしても1個外れても、10個入りのものを買わなくてはいけず、その他の機材や器具にしても実にコストがかかり、不経済であった。こうしたことも矯正機材やバイトの矯正医を必要としないインビザラインなどのマウスピース矯正が流行っている理由であろう。ましてやコロナ感染のため、人の移動が限られてくると、東京から月に1度としてバイトにくるもの難しくなり、結果的に患者に迷惑をかけることになる。以前は、矯正歯科専門歯科医院、矯正歯科医がバイトで治療する歯科医院、一般歯科医に分れていたが、最近では矯正歯科専門歯科と一般歯科の二つになり、一般歯科でも小児矯正に特化したところとマウスピース矯正を主体とする歯科医院に分かれてきている。いずれも矯正治療の基礎的な知識や手技(セファロ分析、ワイヤーベンディングなど)がない先生が多く、それによるトラブルが散見する。

2021年4月3日土曜日

1973年のある日


阪急塚口駅


 1973年頃というと、昭和48年、私は17歳、高校二年生の時の1日を見てみたい。

 

 朝起きるのは615分、急いで顔を洗い、歯を磨き、ご飯と味噌汁、そして前夜のおかずの残りを5分で食べ、640分には東難波4丁目の尼崎市バスの停留所、通称三角公園前の停留所から阪急塚口駅行きの645分のバスに乗る。たまにこのバスには宝塚音楽学校のグレーの制服、制帽をかぶった背の高い女の子が乗るが、校則が厳しいせいか、ニコリともしない。75分には塚口駅に到着するが、駅から少し離れたところにバス停があったので、急いで塚口駅神戸方面のホームに走る。乗る位置は決まっていて、伊丹線からの通路階段の少し向こう、電車の後ろから3両目であった。神戸大学住吉小学校から甲南女子中学に入学した目のくりっとした女の子がいつも同じ車両に乗っていて、あんな妹がいればなあと会うのが楽しみであった。塚口駅からは私一人であるが、武庫之荘駅から一人、西宮北口から三人と次々メンバーが集まり、ガヤガヤと喋りながら、六甲駅まで乗り、ここからが六甲学院までの長い坂がある。高校二年生くらいになると流石に慣れてそれほどきつくはなく15分くらいで学校に着くが、一電車乗り遅れると6、7分でかけ上げるのはきつい。

 

 学校に着くとまず、制服を脱いで、椅子にズボン、そして上着を掛け、白い上下の体操服に着替える。制服を汚さない工夫だそうだ。2時間目が終わると、上着、靴、靴下を脱ぎ、上半身裸でグランドに飛び出し、走る。運動会前は行進の練習となる。寒い冬の日はこれがきつい。昼休みには、スティームに入れておいた弁当箱を取り出し、食べるが、これがほぼ毎日、白米に梅干し、卵焼きとソーセージというコンビであった。食べ終わるや否や、すぐに体育館に直行し、ほとんど毎日、バスケットボールをしていた。六甲学院は授業の前に必ず、全員、瞑目という、目をつぶり、心を落ち着けてから授業に向かった。ところが宿題を忘れると、長い場合は授業が終わるまで机の横に正座させられ。これも数多く経験すると1時間くらいは平気に正座できるようになる。授業は4時頃に終わるが、サッカー部の練習のある日は練習着に着替えてグランドに出る。終了するのは暗くなってボールが見えなくなるまでで、冬になると6時前には終わっていた。週に3日が練習日で、それ以外の日は、自習室みたいな広い教室があり、ここでサッカー部の勉強のできる同級生に宿題を見せてもらい、帰宅する。帰るのは7時から8時頃で、夕食を食べて、テレビを見て、少し勉強して12時頃に寝た。この頃、夢中になったのは、“宇宙大作戦”、つまりスタートレックのテレビ版でほぼ毎日11時頃から放送していた。裏番組で“11PM”も放送していたが、流石に親父とみる訳も行かず、二人でカーク船長の活躍を見てから、宿題がある時はそれをしてから寝たが、そのまま寝てしまった時は、次の日は正座となる。

 

 土曜日の午後からは大きなグランドで、中学生と一緒の練習となり、日曜日は練習試合をすることが多かった。日曜日はフリーになると、阪急六甲駅までは定期が使えるので、三宮に行くことが多かった。よく行った映画館は安く、若者向けの映画がかかっていたビッグ映劇である。イージーライダーなどのニューシネマはほとんどこの映画館で見た。どこかで昼飯を食べたと思うが、記憶はなく、夕方頃に帰宅したことを考えると、家で昼飯を食べてから神戸に出かけたのかもしれない。たまには新聞会館内にある映画館にも行った。ここは大きな画面であった。家族で神戸に行く時は、阪神三宮からさんちかタウンを通り、ソニープラザも見て、上に上がり商店街をずっと行き、必ずドンクでフランスパンを買った。そして大丸を見て、元町駅から尼崎に帰る。うちの親父は、大阪育ちであったので、小学生の頃は外出といえば、大阪の阪急百貨店の上にあったデパートレストランでお子様ランチとクリームソーダーを食べるのが楽しみで、高学年になると、同じ階に少し高級な今でいう“ぼてじゅう”にようなお好み焼きを出す店があり、ここでは黒のステーキ鉄板に横長のお好み焼きがのって出てきた。うまかった。映画館はあの巨大な梅田OS劇場の70mmのシネマスコープが素晴らしかった。

 

 ほぼ50年前のことである。今でも帰省の折は、懐かしいので、わざわざ塚口駅から神戸三宮に行くことがある。




2021年4月2日金曜日

ディスカバーニッケイに投稿しました

 



チャールズ・ペダーセン




現在、“ディカバーニッケイ”というウエブマガジンに、須藤カツのことを書いた原稿を送り、校正もほぼ終わり、今月の中頃に掲載予定である。日系アメリカ人は種々の活動をしており、全米日系人博物館やこのディスカバーニッケイも活動の一つで、日系人の歴史、芸術、文化などを保存し、紹介してきている。日系アメリカ人は全米で約140万人おり、昔はアジア系アメリカ人の中に占める割合も高かったが、近年は中国系、フィリッピン系、インド系、ベトナム系、韓国系も増え、これらに次ぐ6番目となっている。それでも日系人の移民の歴史は古く、また子弟の教育レベルも高いことから、多くの著名人を生み出している。個人的にはアメリカ陸軍参謀総長となったエリック・シンセキの業績は素晴らしい。1903年にアメリカ陸軍の最高職位として陸軍参謀総長ができたが、シンセキを除く歴代の39人の参謀総長は全て白人である。同様に海軍にはハリー・ハリス大将がいる。有機化学でノーベル賞をとったチャールズ・ペダーセンも日系人とされていて、本当かと思っていたが、彼の写真を見ると正しく日本人である。

 

こうした日系人の活躍は、人口の割合にしても頻度が高く、例えば、さいたま市の人口は130万人くらいであるが、日系人ほどの著名人はおらず、異国の地にあって、白人からの差別にあいながらも、勤勉に働き、そして苦労しながらも子供たちに良い教育を与えた、さらに太平洋戦争では、全財産を取り上げられ、強制収容所に入れられるという悲劇もあったし、また日系人よりなる第442部隊の活躍などもあった。戦後も敵国であったため、なかなかアメリカ市民権を得ることができなかったが、ようやく1960年代頃から市長、知事となる日系人が現れ、1988年にはレーガン大統領による日系人強制収容所への謝罪があった。現在では日系アメリカ人も4世あるいは5世の時代となり、日本語を話す世代も少なくなっている。

 

今回、ディスカバーニッケイに応募したきっかけは、タカノ・デイさんの“Atypical Japanese women- the first Japanese female medical doctor  and  nurses in Chicago”という論文をこのウエブマガジンで見たことである。そこには横浜共立女学校を卒業後、シカゴ女子医科大学に留学して女医となった菱川ヤスの幼い頃の写真が出ており、それをブログに載せるために著者に連絡した。幸いタカノ・デイさんは日本で教育を受けられた方なので日本語でメールできたが、写真の版権元には英語でメールのやり取りをして、少し面倒だった。さらに知人のノンフィクションライターの川井龍介さんも多くのレポートをこのマガジンに投稿しているため、一度、ここに須藤かくのことも投稿しようと考えた。最初は日本語のレポートのみを考えていて、これは以前、東奥日報に投稿しようと用意した文があったので、すぐに完成できたが、最初に述べたように日系アメリカ人の多くは英語世代であり、彼らに情報を伝えるためには英語翻訳も必要と考えた。実は、暇だったので以前出した須藤かくの小冊を大まかに翻訳していたので、これを元にもう一度、手を加えた。ただ所詮、中学生レベルでの英語文章である。知人のアメリカ人に最低限の訂正をお願いして、3200語くらいの英文レポートが完成した。早速、ディスカバーニッケイに英語翻訳を送った。校正段階で相当直されたが、校正前後を比べると明らかに文書レベルが上達しており、助かった。私自身、これまで多くの矯正歯科専門誌や歯科雑誌に論文を投稿したし、長年にわたり編集委員をしてきたが、理科系論文では内容についてはかなり細かい質問をするが、それ以外については明らかな誤字を修正するにとどまる。文章自体の言い回しを大きく修正することはない。また本を出版した時も出版元の編集者によるコメントはあまりなかったが、今回のディスカバリーニッケイの編集者は本当に優秀で、積極的に文章を変更し、さらに追加の説明も加え、読者にとって見やすいものとした。修正には全面的に応じたので、私のレポートが掲載された時は、英語のレポートも是非とも読んでほしい。実際の私の英語力はこのレベルではないのに、我ながらいい英文であると自慢したくなる。これをきっかけに日系アメリカ人の方にも須藤かくのことを知っていただければ嬉しい。

 


2021年4月1日木曜日

マウスピース型矯正装置による治療に対する日本矯正歯科学会の見解

 


 自費患者の確保と矯正知識がなく、機材がなくてもできる矯正治療法として、マウスピース型矯正治療が非常な勢いで増加している。歯科向けの経営コンサルタントが、こうしたマウスピース型矯正装置を使った治療法を経営手法として一般歯科に勧めているため、導入する歯科医院も増えている。歯科医も、マウスピース型矯正装置をブラケットなどの従来の矯正装置が不要な治療法として、そのまま信じ、単純に導入する。結果、治らず、患者からクレームが来るが、これ以上、治療はできないと答え、料金の返却はない。患者からすれば、治ると言われて治療を開始したのだから、それで治らないと怒るのは当たり前であろう。一方、人間の体を対象にする医療には必ず“医療の不確実性”があり、同じような治療法をしても結果が異なる、治らない場合がある。ガンの標準治療法が決まっていて、70%の患者に有効であっても、残り30%の患者では有効でない場合がある。これと同じように矯正治療をしても、例えば、骨性癒着(歯が骨とひっつく)の場合は、歯が動かず、治療はうまくいかない。さらに上の前歯を中に入れようとしても舌が邪魔をしてなかなか入らないケースもある。こうした不確実な面は、名医であってもありうることであり、マウスピース型矯正の失敗もそうした面から言い訳する先生もいる。ただ専門医は、うまくいかないケースは最初から回避するし、さらにそうしたことが起こっても他の治療法による対処を考える。まず検査、診断によりマウスピース型治療法の適用かどうかを調べる。以前に比べて歯にレジンによるアタッチメントをつける方法が一般的になったことで、マウスピース型矯正治療法、インビザラインの治療範囲もかなり広がったが、日本矯正歯科学会では一応の指針を挙げているのでここに載せる。

 

欠点

  歯の移動量の少ない症例に限られる(軽度の乱杭歯、軽度の歯の空隙、矯正治療後の軽度の後戻りなど)。

  毎日長時間の装着を必要とし、使用状況によって効果が大きく異なる。

  小児や骨格性要因を含む症例には適さない。

  現在の医療水準で考えれば精密な歯の移動は原則として困難で、満足のいく治療結果が得られない可能性がある。

利点

  他人から見えにくい装置である。

  装置の着脱が簡単で食事や歯磨きがしやすい。

  金属アレルギーを有する方も使用できる。

  診療室でも治療時間が比較的短い

 

 日本矯正歯科学会の見解に関しては、インビザラインを多くしている先生からは異論もあろうが、それでも学会のこうした見解は、もし訴訟になった場合に大きな力を持つ。ましてやマウスピース型矯正装置は医薬品医療機器等法の対象外のものであり、その使用に際してはこれまでの矯正装置以上に十分な注意と患者への説明が必要となる。

 

 マウスピース型矯正装置による治療を受ける方は、少なくともこの日本矯正歯科学会の見解と薬機法対象外のことについて先生に説明を求めるべきであり、十分な治療実績をもつ先生であれば、こうした問いに対しても納得のいく説明をするであろう。少なくとも専門学会の見解で推奨されていないこと、薬機法対象外の治療をするなら、医師にもそれなりの覚悟と自信が必要である。中にはセファロ分析などの矯正診断なしで、マウスピース型矯正装置を使う歯科医院もあるが、論外であり、やめた方が良い。