2021年4月9日金曜日

弘前藩 御馬場

 

明治二年 馬屋町



平成30 年に、高照神社内に「高岡の森弘前藩歴史館」ができ、それに併せるように神社内にあったとされる馬場の発掘調査が行われ、土塁なども含めて復元された。馬場の大きさは、長さ156m, 16mで、最近ではここで流鏑馬などの競技が行われている。流鏑馬などの祭事を神社に奉納した馬場であり、普段、弘前藩士がここで馬術の練習をしていたわけではない。

 

弘前藩士の主たる馬術の練習場は「御馬場」であり、その詳細は不明である。御馬場は三の丸、東側、現在の緑の相談所前にあった“外御馬場”があるが、主体は馬屋町にある“御馬場”である。この後馬場について、明治二年弘前絵図および明治六年弘前地籍図よりその規模を推察してみよう。

 

場所は、現在の弘前市馬屋町19から22番と弘前工業高校の西側、食堂、プールのある区画である。明治二年弘前絵図では、馬場西側に、北の方から、“馬扱ノ詰所”、“馬庭”、“馬術見分所”などが並んでおり、その奥には“下役 八戸宗太郎”、“青沼春吉”、馬役木立要吉“、”同 奈良兵吉“、”下役 竹内喜作“、”馬役 有海登“などの名がある。さらに馬場に面した(玄関が馬場にある)東側には”大津屋九左衛門馬屋飼料取扱所“があり、その東には”大津屋九左営門借地“とある。御馬場を中心として馬役の藩士を配置し、そこで馬の管理、飼育、調教なども行なっていたのだろう。

 

これが明治六年になると、馬場の西側の詰所、馬庭などの大部分は“青沼春吉”、“木立要左衛門”、“有海栄作”の大きな敷地となり、わずかに“八戸太郎”と馬場内の一部に“工藤主膳”、これは工藤他山の私塾、思斎堂である。また大津屋の敷地は弘前の大商人“今村九左衛門”とそのままである。

 

御馬場に話を戻そう。5間2尺(9.4m)か6間2尺(11.8m)の幅の3つの馬場が、幅2間2尺の2つの土居(土塁)で分けられている。土塁の横に記された数値は、長さが93間(167m)となっているが、青沼、木立、有海の敷地幅を足すと179(321m)となり、馬場の長さは300mくらいと推測される。土塁の高さは不明であるが、高照神社の復元土塁から高さはそれほどないと思われる。御馬場の大きさは、幅10mくらいの3つのレーンを持つ、幅38.5m、長さがおよそ300mの規模と推測される。高照神社の馬場よりかなり大規模なものだったことがわかる。さらに3つのレーンのうちの真ん中だけは、“西側土居内官地”となっているが、左右は馬屋町となっている。御馬場の北側は3つ目のレーンが今の埋門に続くが、その西側は馬場から土塁が延長し、さらにその奥には柵が設けられている。今は西堀のボート乗り場に行く道ができているが、当時は侵入禁止となっていた。幕府の馬場でも大きな高田馬場が、東西200間、南北25間であったが、弘前藩の馬場もそれよりは小さいがかなり大きな馬場であった。また3つのレーンを持つ構造も似ている。

 

御馬場のある馬屋町全体を見ていくと、西側、南側は西堀から続く水路に囲まれ、東側には今はなくなった城への登城口があり、その上には大きな柵、門が設けられている。また北側には埋門があり、その周囲には土塁がある。こうしてみると馬屋町自体が一種の出城のような場所であり、土塁で区切られた3つのレーンはいざという時には土塁を高くして敵の侵入を防ぐ目的があったのかもしれない。また今の西堀の南側はすでに埋めたてられ、家が立っているが、明治六年の絵図では中洲のようなものがあり、対岸の石郷岡、山形、佐野、萢福の土地となっている。間が水路にようになっているが、意味がないように思えるのだが。

 

現在、この地域には弘前工業高校があり、その敷地の大部分は、元は“大津屋左衛門”すなわち今村九左衛門が馬のために管理していた土地と御馬場の一部が使われたことがわかる。また旧御馬場については周囲に家が建ちならんでいるが、昔はここに馬場があったかと思うと、ほぼ直線の道路が100m以上続く道から昔のイメージが思い起こすことができよう。






明治六年の馬屋町



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