2020年11月23日月曜日

城西尋常小学校、時敏尋常小学校 卒業写真(明治および大正)

明治36年 時敏尋常小学校
 
大正8年 城西尋常小学校


 以前、ヤフオクで安価で購入した、明治から大正時代の卒業写真のうち、徳島県那賀郡立那賀実科高等女学校の卒業写真については、このブログで紹介した。それ以外の弘前市の城西尋常小学校と時敏尋常小学校の写真については、まだ説明していなかった。

 

 弘前のコロナ問題もようやく収束してきたので、本当に久しぶりに弘前図書館に行ってきた。四人がけの椅子に一人、1時間以内という厳しい条件で入場規制を行っていたが、普段から二階の資料室はそれほど人が多くないので、あまり変わらない。今回の目的は、ヤフオクで入手した写真の年代確認である。時敏尋常小学校の写真裏には、「時敏尋常小学校 第 回卒業生一同 及び職員一同写影 明治三十六年四月二十三日釜萢清蔵 謹写」の記載がある。西洋風の校舎の正面で撮影された写真の上段の真ん中には初代校長の中川寛蔵の姿がある。少し斜めを向きタキシードを着た人物である。明治194月に初代校長となり、明治443月まで校長を務めた。この西洋風の校舎は明治21年に下白銀町にできたもので、柱も西洋風の白いモダンな建物であった。明治36年当時の生徒数は455名で、学級数は8組であった。この卒業写真には男子42名、女子51名の計93名の生徒が写っている。他には男性教師、職員5名と女性教師2名がいる。時敏尋常小学校の卒業写真はこれ一枚である。

 

 城西尋常小学校の卒業写真は6枚ある。4枚については裏に撮影年月日が記入されている。一番古いのは「大正八年三月二十一日 卒業式 葛原岳一 卒業生一同 男 受持 健部武郎 女 受持 土谷先生 校長 白取千代次郎」の記載がある。白取千代次郎は7代目の校長で、明治36年から大正8年まで、在職したので、この写真は在任最後の年である。校舎は明治からの古い校舎である。残りの撮影年月日の記載されている写真は3枚で、いずれも真新しい校舎の前で撮影され、「大正十三年三月十七日 卒業記念撮影」、「大正十四年三月二十九日 卒業生一同」、「大正十四年三月 正夫城西小学校卒業記念撮影」の記載があり、写真の真ん中には当時の校長、外崎日出城の姿が見られる。外崎は大正10年から14年まで城西尋常小学校の校長であったので、この記載は正しい。残り二枚の写真には記載がないので、ここからは推測である。


 一枚の写真には古い校舎前の卒業写真で真ん中には外崎校長の姿が見られる。城西尋常小学校は大正1212月に新校舎を建てたので、この写真はそれ以前のものである。となると外崎校長の在職期間は大正104月から143月なので、この卒業写真は大正11年か12年の3月となる。もう一つの記載のない写真には、上段真ん中に少しいかついヒゲの男性がいる。“城西小学校百年史”を見ると、この人物は6代校長の長尾克己である。在職期間は明治33年から35年なので、この卒業写真は明治34年か353月の卒業写真であると推測される。男子は51名、女子は32名で、時敏尋常小学校より男子の割合が高い。また教師、職員7名は全て男性である。入り口、右には“外靴で入るべからず”の木板が掲げられている。多分、下駄を脱いで学校に入ったのだろう。同時期の時敏尋常小学校と城西尋常小学校の卒業写真を見ると、時敏の方が、女の子がおしゃれで可愛い髪飾りをしている女子が多いが、城西は少ない。校区により経済状態が多少違うのだろう。また明治30年代の卒業写真の女子はほとんど稚児髷であるが、大正になるとほとんどそうした髪型の少女はおらず、流行の移り変わりは早い。


できればこの卒業写真は城西小学校、時敏小学校に寄贈したいと考えているが、寄贈を受け入れていただければ、ご連絡をお待ちしている。


大正13年 城西尋常小学校

明治35年頃 城西尋常小学校







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