2020年11月6日金曜日

新型コロナウイルス 弘前市の風水の綻び


 

東向きの北斗七星の柄杓の真ん中の二つの神社が消滅した


 弘前では新型コロナウイルスの感染が止まらない。10月のはじめ、繁華街、鍛冶町のクラブから発生したクラスターは、一次、二次、三次感染を発生し、すでに関連を全て入れると200名以上の感染者となっている。人口十万人あたりの感染者数では100名以上と思われ、東京都が300人であることを考えると、全国でも有数の感染地域となっている。10月までは感染者が0だっただけに、住民にとっては悪夢のような災難である。こうした大量のクラスターを起こした原因は、初動の対応、特にクラブ従業員の中に感染兆候が現れた時の保健所の対応が悪いと言われるが、今まで一人の感染者が出なかった油断もあったのだろう。こうした人為的なミスは確かにあったのだが、私自身は運が悪かったとしか言いようがない。いくら注意してもこの新型コロナウイルスは感染する可能性があり、私自身、かなり感染には気をつけているが、それでもいつ感染するかは運次第である。

 

 昔の人は、新型コロナウイルスのような疾患を疫病、厄災と呼び、お祓いをして清めた。ところが今回、弘前市ではこうした疫病、厄災から市民を守るねぷた祭りを結局しなかった。昔から続く祭りには意味があり、京都の祇園祭も同じような意味を持ち、今年は山鉾巡行こそ中止になったものの、“神籬による神幸祭”、“御幣による町内巡り”は例年通り行われ、町内の厄災を清めようとした。密集にならないように、隠れるように運行したが、それでもかなり本格的ものであった。ところが弘前では、ねぶたの本来の意味が失われ、観光エンターメント化して、市長が中止といえば、そのままねぶたを巡行しなかった。本来の意味を知れば、誰かゲリラ的運行もあるかと思ったが、結局、弘前城東(東地区町連合会ねぷた)以外、誰も運行せず、実に素直であった。城東の葛西敞さんはねぷた歴史の第一人者なので、意味を知り、敢えて行ったのだろう。


 弘前を風水で守る鉄壁の防御がここ数年で極めて弱くなっている。まず全国の東照宮でもかなり古く、1617年にできた弘前東照宮が2012年に破産し、さらに2015年には本殿も建物だけ他の場所に移され、完全に更地となった。北斗七星の真ん中を占める重要な拠点神社が完全に消失した。さらに禰宜町の江戸初期からある大杵根神社もいつの間にかなくなって更地になっていた。前から奥に隠れて目立たない神社であったが、何もなくなっているのには驚いた。ここも古い神社で、私の感覚からすれば、古い神社を平気で潰してばちが当たるとは思わないのだろうか。また新しくできた弘前レンガ倉庫美術館近くの稲荷神社、住吉神社の荒廃もひどい。北斗七星を形成する二つの神社がなくなり、一つは荒廃しており、風水の観点では東からの厄災には全く防御できなくなっている。防御は一番弱いところから崩れていき、その崩壊箇所が東であり、東から厄災の悪い気が流れ込んだ。

 

 こうしたオカルトめいたことを医者が書くというのは科学的ではないが、一方、郷土史の研究家としては、先人の築いた弘前の結界を容易に崩した最近の出来事にバチが当たったように思える。神社は日本人の自然信仰を体現する重要な場所であり、その設置には、何らかの風水あるいは意味を持たせた。人々は日照り、害虫、冷害などによる農作物被害を恐れ、神に祈った。こうした天災は人間の力ではどうしようもないからだ。また疫病、飢餓によって多くの人々が亡くなった時も神に祈った。そして村、地区の守護神として神社を作り、氏子を結成して大切に保存してきた。村には氏神様を祀った小さな神社があり、それを氏子の何名かの名義で保存してきたが、そうした村の有力者、氏子が亡くなると、その子供は“俺の名義の土地だから売って金をくれと”と言い出し、結局、神社の土地が人手に渡り、売られる例もある。一部の神主がいる神社は所有権がはっきりしているが、こうした小さい神社は村の共同保有である場合があり、村の共同体制が崩れると崩壊する。

 

 弘前での新型コロナウイルスの蔓延は、もちろんこうしたオカルト的なものによるものではない。ただお寺への墓参りは盛んであるが、さて神社の参拝というと正月くらいしかないのでなかろうか。私は、結構、神社にお参りに行く方で、自宅にも診療所にも小さな神棚があり、毎日、拝んでいる。大阪では、自宅や会社に神棚があるのは、ごく当たり前で、えべっさんの福笹などもここに飾る。今は一刻も早い新型コロナウイルスの終焉を祈っているが、どうも仏壇ではこういう訳には行かず、昔の家の多くは、仏壇と神棚が同時にあった。弘前の神社の衰退を見ると、こうした家庭での日常の祈りも減っているのだろう。残念である。

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