2008年6月16日月曜日
山田兄弟9
弘前大学医学部歯科口腔外科にマレーシアからきた先生がいる。中国系のひとで、客家(ハッカ)の家系であろう。言葉は客家語が母語であろうが、広東、福建語をもちろん、北京官語もしゃべれる。台湾からの留学生とも台湾語、北京語両方で会話ができていた。さらにマレーシアでは高等教育は英語のため、英語も堪能な上、日本の歯科大を卒業して、医局に残ったため、日本語もほぼ日本人同様にしゃべれる。一番だめなのが、マレーシア語で街に買い物に行く時使うと言っていた。5−6の言葉をしゃべるようだ。
これで思い出したのは、孫文のことである。孫文も広東語はもちろん、教養ある知識人としては北京語もしゃべれたであろうし、ハワイで育ったことから英語も堪能であった。それでは日本語はどうだったであろうか。日本には長くいたことから、ある程度の日本語はできたようだ。ただ正式に日本語を習う期間もなかったであろうし、革命のためそんなひまもなかったと思われる。それでは日本人の協力者とはどのようにコミュニケーションしたのであろうか。例えば宮崎滔天との会話はどうだったのだろうか。陳舜臣の「孫文」の場面では、英語と簡単な日本語、および筆談で行っているように描かれている。他の小説では普通の日本語で会話している。中国からの留学生をみると、正式な語学研修を少なくとも1年以上受けないと、革命論議などの細かな会話はいくら語学の達人でもなかなか難しかったのでは。おそらく他の日本人協力者との会話も日本留学者の通訳や筆談(当時の日本人は漢文に素養があり、十分に伝達はできたろう)であったであろう。
そんな日本人協力者の中、山田兄弟は最も中国語ができたと思われる。兄良政は日清戦争の頃、通訳をしていたし、純三郎も日露戦争で通訳を、また東亜同文書院の中国語の教師をしていた。とくに純三郎は終戦までずっと中国にいたことから、ほぼ中国人なみに北京語ができたし、上海に長くいたことから浙江語も堪能であったろう。
中国革命の参加した中国人の中には、日本に留学して日本語も堪能であったものも多くいて、日本人協力者とも日本語で会話できたであろうが、仲間うちでは当然中国語で会話したであろう。こういった会議におそらく山田純三郎が日本人として唯一、参加できたのかもしれない。冗談やY談などの革命の同士としては当たり前の仲間内の会話にも入れたであろう。孫文と最も緊密に接触し、秘書のような仕事を純三郎がしていたわけはおそらくその語学力と誠実性によるものと思われる。
青森では言葉のコンプレックスが強い。戦前の東奥義塾は英語教育に相当力を注ぎ、優秀な学生をアメリカに留学させていた。標準語へのコンプレックスが逆に英語や中国語の学習に邁進させたのかもしれない。
エドガー・スノーは「中国の赤い星」など毛沢東の中国共産党の賛美記事を書いたが、今から見るとかなりプロパガンダに乗せられた記事であり、真の姿を描いていない。この理由として所詮は中国語を話せない外国人であり、革命の負の部分を知るほど、組織の中に入りきれなかったことが挙げられる。孫文の中国革命においても言葉の壁は日本人協力者に同様な問題を含んでいたかもしれない。
写真は1913年3月に日本を公式に訪問した孫文一行の神戸での歓迎昼食会のもので、下段の右端が山田純三郎である。
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