2010年11月3日水曜日

最勝院および大円寺



 現在、弘前高校のあるところには、かって慈雲院という黄壁宗の寺があった。明治2年地図では、寺内に本堂のほか、六角堂や松尾芭蕉の句碑である「翁塚」があったようだ。天神という記載もあるが、字句通り学問の神、菅原道真を祀ったものか。また兼松石居(三郎)の墓とわざわざ記載されており、明治2年当時、兼松石居は著名人であったのであろう。いずれにしても学問の神、天神と、儒学者兼松石居の墓があった慈雲院に、1893年に青森県尋常中学校(弘前高校)が移転してきたのは、ふさわしい。比較的、地所の割に建物などが少なかったからであろうか。また寺内には「名誉櫻」という記載がある。何かいわれがある桜のようだが、詳細はわからない。当時は弘前城には桜が少なく、ここの桜の方が有名であった。

 以前のブログでは新寺町には禅宗以外の寺が集まっていると書いたが、この慈雲院は黄壁宗という禅宗であり、座敷、庫裡、方丈などの座禅をくむ建物も附属している。日本でも珍しい宗派であることと、禅林街はすべて曹洞宗であることから、弘前ではどちらかというとマイナーな宗派で、明治初期にはさびれ、学校誘致のために簡単に廃寺されたのだろう。

 すぐ横の大円寺もかわいそうな寺である。田町にあった最勝院が神仏分離令のため明治3年に銅屋町、大円寺のあるところに移った。そのため大円寺は押し出されるように大鰐の方に移された。この地図はその前年のものであるため、田町にあった最後の最勝院の姿を残している。

 最勝院は、二代津軽藩主信枚により弘前城の鬼門にあたる北東の地、田町に1611年に移された。本丸を中心にした完全な北東、鬼門のおさえとして歴代の城主から厚い保護を受け、寺禄は三百石という。敷地も今の石鳥居のあるあたりから八幡神社までのすべての土地で、東覺院、 正覺院 、大善院、 教王院 、觀喜院 、寶成院 、西善院 、徳恩院 、普門院 、龍蔵院 、神徳院 、吉祥院などの12の塔頭寺院が附属していた。現在の地図で見ると、南は鳥居のある熊野神社から北は八幡神社の奥の方まで、東は市営住宅の裏にある大久保堰まで、西は交通公園の向こうくらいまで、敷地があったようで、今の市営住宅当たりに本堂や学寮などの寺の施設があった。かなり大規模な建物だったであろう。また最勝院西の、今の時敏小学校あたりに会田熊吉砲術射的場があったようで、江戸末期にはここで鉄砲の訓練をおこなったのであろう。

 今も現存する弘前八幡宮には御吉兆場というものがあるが、ここでうずらを飼っていたようだ。また地主堂というものが本堂の左にあり、実際には確かこのあたりに稲荷神社があったような気がするが、一度確かめたい。

 先週の弘前ロータリークラブの卓話で、この明治2年弘前地図を持って話をしてきた。会員の皆様からは好評を得たが、実際の現物を見ると、写真とは全然違うとの感想をもらった。ブログにあげているような拡大した写真の方が字がよく読めて何かを探すのにはいいが、全体の雰囲気を知ることはできない。これだけ緻密な手書きの地図となると、あたかもインドの細密画を見ているような感じがする。学生の頃にインドに行った折も興味があり、インドミニチュアールの博物館やお店を訪れ、多くの作品を見て来た。あまりに細かい描写にまず感動し、細部、全体、細部を繰り返しながら作品を鑑賞する。それを繰り返すうちに作品の世界に入っていく、これが細密画の鑑賞法であろう。明治2年地図でも、単に地図という枠を超え、手書きの墨の文字があたかも模様のように感じられ、ひとつの芸術作品と呼べるものである。ロータリーの会員の感想にも、そういったものが多く、保存状態のよさに一様に驚きをもっていた。明治初期の弘前を知るという点では地図のデジタル化も重要ではあるが、芸術作品としても地図そのものが弘前市民にとっては大事であると感じた次第である。

 印刷会社も経営している会員のひとりに、地図のデジタル化について相談したところ、4分割くらいすれば何とかスキャンしてデジタル化できるとのことであった。またあるひとには、製作当時のままで状態がいいが、できれば早めに裏打ちした方が傷まなくてよいとの指摘を受けた。大きな地図では、通常折りたたみ保存しがちだが、そういった保存法では折ったところがだめになり破れてくる。この地図は紙の筒に巻いて保存していたため、痛みが少ないが、それでも長期の保存を考えると早めに裏打ちして頑丈にした方がよいであろう。長い製図筒のようなものがあればいいのだが、適当な大きさのものがない。

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