2019年2月24日日曜日

アメリカからのお客さん



 昨日と今日は、アメリカのシンシナティーからのお客さんを弘前と青森に案内した。以前にも弘前に来たシンシナティー美術館のホウメイさんと、彼女の親友で美術館のボランティアをしているナンシーさんが弘前に来た。現在、東京の森アーツセンターギャラリーで開催している新北斎展にシンシナティー美術館の所蔵する作品を展示するために来日した。先日のNHKの日曜美術館でも一部取り上げられていたが、今回の展示会の見どころの一つに北斎の肉筆の“円窓の美人図”と最晩年の“向日葵図”がある。これらの作品はシンシナティー美術館からのもので、本邦ではあまり公開されていない作品で、北斎の技量を余すことなく伝える貴重な作品である。

 弘前に来た目的は。シンシナティー美術館が所蔵する“芳園輝”の作品について話し合うためである。大英博物館にある作品や他の博物館の”芳園輝”の作品は、従来、幕末の著名な画家、西山芳園作となっていたが、彼とは別の芳園の作品であることは間違いない。署名、落款、描き方が全く違うからである。それでは誰かというと明治に画家をしていた香川芳園という人物がいる。1830年頃に生まれ、少なくとも明治40年には死んでいるので、幕末から明治にかけての画家と言ってよい。京都にできた書画学校にも出仕した。出仕というのは先生ということでなく、学校主催の展覧会などがあれば出品することを指す。内国絵画共進会出品略譜では“香川芳園 蟾麿と号し、京都府上京区西大路町に寄留す宇野助順の男にして香川行徳の養子となる。天保11317日生まれなり。望月および川越前守岸岱に学び、近江、家、尾張、紀伊、摂津などを遊歴し、明治16年兵庫県の名により、同県下の明により同県下川海漁師海鼠漁具および産魚の写真200枚を製作す”となっており、全く無名の画家ではなかった。

 香川方園の師匠は、望月玉川で名を輝といい、望月派の祖、望月玉仙の号に蟾があり、その師あるいは租の名前にちなんで香川芳園も輝あるいは蟾の名を使ったと考えた。ただホウメイさんからは香川芳園作と確定されている作品はあまりに下手で、芳園輝の署名がある作品とはあまりに力量が違うと言われた。これには反論できないが、同じ画家でも年齢が上がるにつれ、あるいは病気などで作品が酷くなることもあり、私はその口かと思っている。何れにしても結論は出ず。これまで芳園平輝あるいは芳園輝の署名のあるものだけを探していたが、もう少し範囲を広げて“芳園”の署名の中にも芳園輝と同一人物がいると考えて、検討したい。

 ナンシーさんは日本文化に詳しく、雪の最勝院の五重塔を訪れた時に川瀬巴水の“最勝院五重塔”のプリントを持っていったところ、巴水の作品をよく知っているようで、同じ場所で写真を撮れ、大変感激していた。その後、長勝寺、藤田記念庭園、弘前城、津軽ねぶた村に行ってから自宅に招いて、ホウメイさんとディスカッションした。その折、私の土屋嶺雪のコレクションも11点になったので、和室の周りに全て吊り下げ、彼女らに見せた。大変、興味を持たれ、その値段のあまりの安さに驚いたようである。ヤフーオークションはアメリカでもできるかと思ったが、調べると日本と最近では台湾からの入札できるが、アメリカでは無理なようである。掛け軸を中心とした日本の昔の絵の評価の低さに驚いていた。

 今日は、絶好の天気に中、青森に向かい、県立美術館、らラッセ、八甲田丸などを見学し、新幹線で東京に向かった。かなりあちこちを歩かせて、疲れさせたのを反省している。台湾出身のホウメイさんが喋る英語はよく理解できたし、私の下手な英語もよく理解してくれた。ただ純粋のオハイオ人であるナンシーさんはジャパニーズ英語に慣れていないのか、私の英語がしばしば通用できず、ホウメイさんが訳してくれた。もう少しネイティブなアメリカ人にわかる英語を喋らなくてはと反省している。

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