2007年8月5日日曜日

山田兄弟6




近くの紀伊国屋書店で「津軽を拓いた人々ー津軽の近代化とキリスト教」相澤文蔵著、北方新社を購入した。明治期の津軽の主としてメソジスト派のキリスト教の活動を調べた力作で、山田兄弟についても一部述べられているので、引用する(このブログでは色々な本から勝手に写真や文を引用していて、著作権からすれば非常に問題がありますが、あくまで弘前の生んだ偉人を紹介する目的で行っていますのでご了承ください。)

山田兄弟の父晧蔵の妹久満子は、政治家菊池九郎に嫁ぎ、また九郎の姉きせ子は晧蔵に嫁いでおり、山田家と菊池家は2重の親類関係であった。山田晧蔵ときせ子との間に生まれたのが、山田良政(明治元年−33)、純三郎(明治9-昭和35)である。また菊池九郎と久満子の間に生まれたのが菊池良一である。菊池九郎は親友の本多庸一の影響もあり、早くからキリスト教の信者となり、その兄弟三郎、軍之助も熱心な信者で、布教活動なども行っていた。子どもたちの信仰に応じてしまいには、母親の菊池幾久子(1819-1893)も、59歳になって洗礼を受け、信者となった。九郎の母親の幾久子は気丈な女性で、幼少のころから苦労しながら菊池家に嫁ぎ、36歳で夫と死別したが、九郎など三男二女を育て上げた。それ故、この女性の存在は菊池、山田家では中心的なものであり、幾久子がキリスト教の信者になったため、九郎の妻久満子も三郎の妻なか子も信者となり、後に禁酒運動などの婦人矯風会の活動の中心人物となる。
写真下の女性が九郎の妻で山田晧蔵の妹、久満子である。きびしい性格が見て取れる。熱心な信者で弘前教会婦人会や愛国婦人会などを結成した。ちなみに夫の九郎はこの妻はにがてだったようで、ずいぶん愚痴をこぼしていたようだ。
このような環境下で、山田兄弟も教会に通うようになるのは自然なことであった。山田良政もその後上海では在留邦人の青年たちの間にキリスト教青年会を組織したりして布教活動を行った。また現地から弘前の両親あての手紙に弟の純三郎を教会に通わせるようにという文面もある。そのために純三郎も東奥義塾にいたころの明治26年に受洗した。純三郎は後年子息たちに「わしが悪の道に曲がらなかったのは、若いころ教会に通ったせいだろう」と言っていたという。
孫文は医師であると同時にキリスト教徒で、その革命運動もキリスト教的ヒューマニズムとは無関係ではなく、同じキリスト教徒として山田兄弟も孫文の人格、革命運動に共鳴したのかもしれない。キリスト教は神の下の人々の平等を説くため、明治期にキリスト教徒となった人々には社会主義、社会運動に共鳴する素因があった。キリスト教徒であるおばや親類などが貧民救済、部落問題、禁酒運動、子守り学校などの活動をしているのを子どものころに見聞した山田兄弟にとって、中国の窮状は見ていられなかったのだろう。

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