2012年4月6日金曜日

安済丸



 幕末期弘前藩が建造、保有していた西洋式帆船は二隻あり、青森丸と安済丸である。1854年(安政元年)11月に下田に停泊していたロシア船ディアナ号が安政東海地震による津波のため損傷を受け、修理のため回航中に沈没した。ロシア使節プチャーチンの乗船だったため、幕府はこの時始めて西洋式帆船建造の許可を与え、戸田村の船大工より西洋式の二本マストのスクーナを建造した。これが「君沢型」と呼ばれる船で、その後我が国でもこの型の西洋船が各藩で作られた。

 蝦夷警護も任されていた弘前藩でも、1860年に青森にて最初の西洋式帆船青森丸が建造され、1861年(文久元年)正月青森から函館までの試運転に成功した。ただ寿命は短く、1864年(文久3年)の3月には七里長浜に乗り上げ、焼却処分されてしまう。

 そこで1866年(慶應二年)正月に完成したのが安済丸である。試運転も終わり、乗員55名を載せて6月21日に青森を出航し、7月30日には品川に入港した。
安済丸は長さ21間4尺、幅5間2尺の660石でキャノン砲二門と小銃12挺を積んでいたという(弘前今昔 第四 荒井清明著)。21間というと約38メートルくらいで、排水量でいえば300トン程度の小型船であるが、君沢型を主体とした当時の国産船としては20間を越える船は大きい方である。英文本(Military industries of japan :Norimoto Masuda 1922)ではAnsai-maruはStyle and material としてBark wooden(バーク型)となっている。幕府以外の藩によって作られた国産船14隻のうち12 隻はSchooner wooden(スクーナ型)となっており、スクーナ型とは2本以上のマストに張られた縦帆帆装のもので、バーク型とは3本以上のマストがあり、最後尾のマストに縦帆が、他のマストには横帆があるものである。具体的に言えばスクーナ型はほとんど君沢型の2本マストで、安済丸は3本マストのやや大型の外航用の船であったのあろう。他藩の国産西洋式帆船でバーク型となっているのは他に松山藩の弘済丸のみである。当時、外国から買った同級の中古のバーク型船が1−2万両したから、藩としても造船には随分金を使ったのだろう。安済丸の絵は残っていないが、おそらく形式からすれば、下の三本マストの松山藩弘済丸(紀州新宮藩が1859年に丹鶴丸として建造、その後松山藩が買った)に近いと思われる。

 安済丸の建造に関わった人物として、石郷岡鼎がいる。安政6年に砲術と蘭学を学ぶため江戸に派遣され、砲術を下曽根金三郎に、蘭学を村田蔵六(大村益次郎)に学んだ後、勝海舟塾に入っている。安済丸の処女航海の初代船将は勘定奉行織田虎五郎で、石郷岡は上締役として乗船している。また同じ勝塾門下の神連之助、葛西金之丞も運用方を務めた。なお安済丸の造船主管は工藤厳治(勝弥)という人で、1862年に勝塾に入門し、「彼理日本紀行」を訳した。明治二年絵図にて屋敷がわかるのは葛西金之丞が植田町片山町、織田姓は二軒しかなく、織田虎五郎は在府町織田寅五郎家であろう。

 以前のブログでも紹介したが、1862年(文久2年)に弘前藩でも海軍を作るために、笹森銀蔵、(山澄吉蔵)、小寺之蔵、福士豊蔵(鷹匠町)、船具軍用学を学ばせるために神連之助、葛西宗四郎、佐藤弥六、蒸気機関学については樋口左馬之助、永野邦助(工藤菊之助と改名、若党町)の8名を江戸に派遣し、さらに蘭学、砲学、兵学、測量学、英学を学ばせるために、漢学については葛西音弥、黒滝彦助(若党町)、菊池元衞、蘭学については工藤浅次郎、小山内玄洋、百川衞之助、梶文左衞門(富田新割町)、砲術については神豊三郎、(篠崎進)(小人町)、兵学については貴田孫太夫、牧野栄太郎、横島彦太郎(若党町)、岩田平吉(小人町)、工藤峰次郎、長谷川如泡(五十石町小路)、田中小源太、さらに海軍術には石郷岡鼎、工藤勝弥、荒井安之助、吉崎源吾、測量学には三浦才助(三浦忠太郎弟、緑町)、相馬吉之進、長谷川健吉(山下町)、成田五十穂(御徒町川端町)、英学には吉崎豊作、神辰太郎、佐藤弥六、白戸雄司、三浦才助、田中小源太、木村繁四郎、国学として山田要之進が江戸に派遣されている。これらのメンバーによって、3本マストの西洋式帆船が設計され、青森で建造されたようである。上記新宮藩の丹鶴丸も進水には失敗し、横倒しになったように、自主制作は結構難しく、外国から買った方が手っ取り早い。こうした中、藩の優秀な若者を江戸に留学させ、費用のかかる蒸気機関の船は作れなかったにしても、帆船としては最新の船を自分たちで製作したのは青森県の産業史では特筆されることではなかろうか。

 前のブログでの述べた須藤かくの叔父須藤勝五郎が安済丸の船将を務めたのは織田虎五郎の後であろう。

 安済丸は建造後、1868年(慶應4年)9月からは江戸藩邸の藩士の国元引き上げに従事し、その後函館戦争では物資、人員の輸送に活躍したが、函館戦争後は弘前の豪商今村九左衞門に売却された。明治になるとあまり使用もされず、青森港に繋がれたままだったので「隠居丸」とあだ名され、最後は廃船された(須藤勝五郎の生涯 ― 弘前藩士の信仰の軌跡 安済丸船将 佐藤幸一著)。船主の今村九左衞門が明治4年に数万両を不正に流用し、藩によって家財・家業を没収されたことも原因だし、また蒸気船の発達に伴い帆船による輸送はコスト的に向いていなかったのだろう。安済丸が青森のどこで作られたかははっきりしない。また設計図面もどこかにあると思うが、今後の研究を待ちたい。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私は青森市在住の石郷岡鼎の4代下の者です。
我が家の家宝として安済丸のものと思われる船舶関連や大砲の図面がございます。
私自身、歴史を紐解くのは不得手なのですが、御先祖のことなので本件に関しましては非常に興味をもっております。
ただ、こういうネット系でコメントするのは初めてなので正直恐る恐る打ち込んでいるところです。

何かご協力できることがございましたら、あおぎんの沖館支店に居りますのでお申し付けください。


広瀬寿秀 さんのコメント...

安済丸について調べた限りのことはこのブログに載せました。今のところ、これ以上の資料はなく、匿名さんの資料は貴重なものと思います。また石郷岡鼎についても、調査していますが、明治二年絵図では8人の石郷岡の名があり、どれか特定できません。できましたら直接私宛にメールしてもらった方が、いいと思います。ご連絡おまちしています。
  メールアドレス: hiroseorth@yahoo.co.jp