2015年10月21日水曜日

山田兄弟 46


 集合写真の説明というのは、当事者がいれば簡単にわかることが、当事者が亡くなっていると後で調べるのが大変である。

 藤田庭園には、何かイベントがあれば、よく行くが、先日、行った折も、洋館の展示室の写真がかわりばえしないのが、どうも気になった。いつも同じ写真を飾ってあり、この庭園を作った藤田謙一の写真はたくさんあるし、業績も多いのに、もっとうまく展示して藤田のことを紹介したらどうだろうか。とりわけ、中国革命に対する藤田の支援については、山田兄弟、菊池良一などと同様に資金面の支援は大きい。孫文と一緒に東京で取った集合写真がある。

 今は便利になり、上の示した集合写真もGoogleの画像検索というもので、探せる。かなり多くの文献で引用されているが、どの説明文にも藤田謙一の名はない。中国でもこの写真はかなり紹介されているが、この写真はむしろ、孫文と藤田が主客であり、肝心の藤田の名がないのは解せない。

 この集合写真の最も、確かな説明文は、「藤田謙一」(弘前商工会議所編、小野印刷)にあるので、引用する。

 「孫文らと一緒に大正五年自宅で写した写真である。この写真に収まった人物は十六人で、もっとも若いのは満六歳の廖承志(日中友好の功労者)である。孫文が藤田に贈った額は「見義勇為 謙一先生 孫文」とあり、前列に、田中貞子(昴氏長女、田中有影夫人)、萱野長知夫人、廖仲愷夫人(何香凝女史)、孫文、孫文に抱かれているのが廖承志、孫文秘書(のちの孫文夫人宋慶齢女史)、田中とよ(昴氏夫人)、田中節子(昴氏二女、宇治慧吉夫人)、廖夢醒、後列は五庄堂の田中昴(証券印刷業)、戴天仇、藤田謙一(藤田の前に孫文が座っている)、橋爪捨三郎、胡漢民、廖仲愷、朝倉菊衛である。写真の背景に、「帝政取消一全會」の大文字の旗が立てられている。袁世凱打倒の旗印である。」

 この写真について次のようにコメントしている。『大正三年—所謂第二支那革命失敗後、孫文氏は日本へ亡命、わが同士とともに専ら再起の機を狙っていた。中華革命党が組織されたのも、孫文氏が当時の女秘書宋慶齢と結婚したのも、その頃の出来事だったと思う。ともあれ、孫文氏の支那革命に対する熱誠さはすばらしく、この藤田謙一の如きも、微力ながら後援の側に立った一人である。親日に終始せし後、日支共存共栄を説く彼、蒋介石にして彼の意志を継いだなら今次の日支事変は発生しなかったかも知れない。しかし汪兆銘氏、孫文の正流に棹して新支那を建設するという。豈に感慨無量たらざるを得んや』」となっている(p107-108)。さらに写真の説明では、「大正四年、日本亡命中の孫文を囲んで(於巣鴨、松柏軒)となっている。」

 日付については、1916322日と191649日の二つがあり、大正5年の撮影は間違いないが、不明である。また場所は東京、巣鴨の田中昴邸、あるいは松柏軒、藤田謙一邸の3つの記載がある。田中昴の夫人とよ、長女貞子、次女節子が写っていることから、これは田中昴の自宅で撮った可能性が高いと思われるが、松柏軒は駒込でも巣鴨に近く、現在、女子栄養大学駒込キャンパスにある松柏軒の可能性もある。また上記文では写真背景の旗を「帝政取消一全會」としているが、これは「帝政取消一笑会」の間違いである。


 「中華民国革命秘話」(萱野長知)によれば、東京日本橋区五庄堂主人田中昴は孫文の求めに応じて中華民国中央銀行券紙幣三百万元(軍票)の印刷を行ったが、海防の税関で没収された。革命成功後に中央銀行券を美術印刷の技術では最高の巣鴨駒込町の田中印刷工場(田中昴)に頼み、大蔵省の図案技師村山某に製作を依頼して完成した。印刷した紙幣を日本橋室町の五庄堂に運搬中に一束を道に落とし、それを拾った富士警察署がその処理に困ったとの記述がある。

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