2016年12月23日金曜日

明治の女医 菱川やす 3

菱川やすを援助したEarle先生





Chicago Daily Tribune Sat  Nov.22.1890

「日本人女医

Charles W. Earle先生の家で行われた斬新なレセプション ー社交記事

ワシントン大通り、535にあるCharles W. Earle先生の家は、菱川ヤスのために行われた送別会に集まった人々で、昨夜はごったがやした。彼女はシカゴ女子医科大学を卒業し、もうすぐ日本に宣教医として日本に帰国する。大学関係者を含む著名な医師や同級生が出席し、楽しい夜を過ごした。
 菱川先生は28歳で、10歳の時に母国で信徒となった。彼女は日本の南にある名古屋で生まれ、彼女の父は政府の官僚であった。彼女は医学を学びたいと真剣に望んでいたが、日本ではそうしたことは許されず,アメリカ人の助けを得るまで、どうしようもなかったが、ようやくこのシカゴで教育を受けることができるようになった。彼女は医学教育を受けた最初の日本人女性である。
 LaSalleクラブのメンバーが、彼等の妻とわずかな招待客に案内して送別会が開かれた。300人から400人の客がいた。」

 記事中のEarle先生は、大学の教授で、今でもその名を関したCharles W. Earle小学校がシカゴにある。LaSalleクラブはシカゴにあった共和党支持者の社交クラブであり、こうした団体の支援もあって菱川は医学校で学べたのだろう。Newspaper.comというアメリカの新聞検索サイトをみても、“菱川やす”についての情報は、これ以上ない。さらに尾張藩の士族名を“尾張藩分限帳”と“藩士名寄”で調べたが、菱川という姓は見当たらなかった。

 Adelin Kelsey 宣教医の手紙には、自分の医療を手伝っていた横浜共立女学校の卒業生5、6人を将来、アメリカに留学させて医学を学ばせたいとあるが、おそらく須藤かく、阿部はな、菱川やすも、その中に入っており、菱川は須藤、阿部に先だって留学したのだろう。ただアメリカの医学校の学費は、現代もそうであるが、高く、費用の当てもなく渡米したところ、たまたま親切なアメリカ人達が学費を援助することになったのかもしれない。一方、阿部、須藤らは、経済的なバックボーンが少ない外国伝道教会など女性団体の援助を期待したため、こうした大口の援助者がいなかった。もともとキリスト系の婦人団体では、参加者は多いが、募金は1、2ドルといった小口のものが多く、常に財政的な問題をあった。シカゴ大学で最初に博士号をとった日本人、浅田栄次が渡米したのが1888年で、卒業が1893年であるから、菱川のシカゴ留学は女性としてもきわめて早い時期のもので、シカゴで学んだ最初の日本人女性留学者だったかもしれない。

 なお”Northwestern University :history: 1855-1905"(P387)には(1905年発行)
「日本について言えば、日本人の菱川やすは長老会委員会によってアメリカの学校で医学教育を受けるために送られた。彼女は日本に宣教に行ったことのある同窓の一人によって(アメリカに)送られた。二人は帰国後に亡くなった。」とあり、この中の同窓生はDr. Sarah Cummings-Porterのことであり、帰国後に亡くなったとの記載から、菱川は横浜婦人慈善会病院勤務の早い時期(この本が出版された1905年前に)に亡くなったようだ。


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