2008年8月19日火曜日

平和祈念像のモデル2



 前回、長崎の平和祈念像のモデルは、顔はおじの長谷川茂雄、体は「せんとうはん」こと吉田廣一さんではないかという仮説を書きました。その後、徳島県の脇町高校のラグビー部OBの方からメールでご連絡いただき、脇町の人たちの間ではみんなモデルはせんとうはんと長谷川先生だということになっているとのことでした。

 日体スワローというHPでせんとうはんの写真が出ているので拝借しました(http://www.nittaiswallow.com/zaidan20060627/tokushima.html)。この写真をみても本当に体の大きな人で、戦前のひとの感覚からすれば、それこそ大男、今でいう2mくらいのひとだったのでしょう。こんなひとは当時ほとんどいなかったようでしょう。せんとうはんの奥さんは小柄のひとで、何かあるとせんとうはんが奥さんの足首をつかみ、ポイと持ち上げたといった逸話もあり、脇町では未だにその人柄と運動能力の高さが伝説となっています。ただ顔は精悍ではありますが、長崎の平和祈念像の顔とは明らかに違います。特に髪型は当時の日本人の平均的な髪型の短髪でイメージが異なります。そのため平和祈念像のモデルといわれてても確かに体つきはそうだが、似ていないという風に見られると思います。

 長谷川のおじさんの写真を帰省の折りに探して見ましたが、1950年ころのものが一枚も実家にはありません。上の写真は30年ほど前のもので、おじさんも60歳は超えていたと思います。何かの記念写真で親類一同が集まっている写真から切り抜いてきたものです。散髪にいったのでしょうか、この写真より普段はもっと髪の毛を延ばしていたと思います。この顔からさらに20年前の顔を想像してみてください。髪型は戦前からウエーブのかかった髪を長髪にのばしていました。この顔と写真下のせんとうはんの体を合成すると、かなり平和祈念像のイメージに近いことがわかると思います。当然、制作者の北村さんからすればそのままモデルにしたのではなく、あくまで参考にしたにすぎないことと思います。平和のシンボルをどう表現するか悩んだとき、西洋的でありながら、東洋人、日本人的なイメージとしてせんとうはんとおじさんのイメージを参考にした可能性はあると思います。

 戦前、戦後すぐの脇町の話をおふくろとおばさんから色々と聞きました。母方の家は6女1男で上から6人は女、最後が男子という家族構成で、祖母が「ええかっこし」のひとだったせいか、長女の夫として長谷川のおじさんが来たときには本当に鼻高々だったようです。当時は、道を歩いていて、いい娘がいると家に帰り、「あの娘を嫁にもらいたい」と告げると親はそれを生業にしている仲人さんに相談し、家柄などが含めていいと判断すると、仲人が相手の娘さんの家に行き、話をつけるという風習だったようです。おばさんもうちの母親もずいぶんもてたようです。とくに母の下の妹、早死にしましたが、大変な美人で、岸恵子に間違えられたり、会う男男がみんな嫁にくれと言われ困ったようです。長谷川のおじさんの妹も大変な美人で、おばさんと一緒に大阪の淀屋橋を歩くとみんな振り返ったそうです。

 あの娘がいいなと思えば、一度仲人に相談して話を進めるといったやり方は、なかなか好きだと告白できない男の人にはいい制度だったかもしれません。今でも自分からどんどん声をかけ、彼女や彼氏を作るひともいますが、なかなか知り合うチャンスがない、声をかけれないといっと人も多く、それが晩婚化や結婚しない人の増加につながっているのかもしれません。

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