2008年11月12日水曜日

松木明




 2年ほど前だが、歯科医師会で弘前大学医学部麻酔学の松木明治教授の講演会が開催され、その懇親会でひよんなことから松木先生と話す機会があった。理事の中では文学畑に精通している?ということで、松木先生の横に座らされ、お相手をした。その時はない知恵を繰り出し、確か渋江抽斎のことを話したと思う。後日、どうしたわけか松木先生から著書多数を送付していただき、非常に恐縮したが、その著書の中にお父さんの松木明先生の「津軽地方の血液型」という大著があった。大変高価な本で、とても自分では買えなかった本でありがたかったが、何しろ、厚く、内容も濃い本のため、ぱらぱらとは見てきたが、なかなか読み切れなかった。

 最近の不景気のせいか、患者さんも少なく、少し時間をかけて読んでみた。松木先生のライフワークと呼べる作品で、昭和10年から第二次大戦で調査ができなくなる昭和18年までの足掛け9年、津軽一円の10万人を超える血液型を調べた研究である。すごいとしか言いようがない。協力者がいるとしてもよくぞこんな大事業を一人でやったもので、ここにも津軽のモツケ精神が垣間見れる。この10万人というのはすごい数値で、当時の津軽人口の1/5といわれ、全数調査に近い。今であれば、サンプリング手法も層化抽出法やランダムサンプリングなどの統計的な手法を使い、もう少し効率的に調査するかもしれないし、分析方法もクラスター分析、有意差検定などの方法も取るかもしれない。

 松木明(1903-1981)は、第八師団軍医広田守の長男として弘前市に生まれ、母親の実家を次ぎ、松木姓になった。弘前中学から弘前高校、東京大学医学部を卒業後、同大学の三田定則教授のもと血清学を学び、昭和9(1934)に郷里弘前に帰り、開業しながら、血清人類学の研究を行う。著書「津軽地方の血液型」の一節を紹介する。

 日本民族の平均の血液型は、A型が36.35%、O型が30.46%、B型が21.77%に対して、松木らの調査によれば津軽治療の血液型はA型33.28%、O型33.22%、B型25.14%とA型が少なく、B型とO型が多く、日本民族の血液型とは全く異なった分布を示すとし、「津軽地方と全く対照的な血液型の分布を呈するのは北九州で、最も典型的な日本型である。日本民族の血液型の変化は、北九州を起点として始まり、西日本から東日本へと東上するにしたがって、次第にA型が減少し、B型とO型が増加する。しかもその変化は非常に規則正しい推移を示して、樺太型アイヌを指向し、次第にこれに接近してゆく。地理的に本州の最北に位する津軽地方は、この血液型の変化の最終の地点となる。日本民族の血液型の変化に於いて、北九州を南端とすれば、津軽地方は実はその北端を成すものと言うべきである。血液型の変化の極まるところ、それは津軽地方であり、血液型の変化の終点に位置するのが津軽地方である。したがって津軽地方の血液型は、日本民族の血液型から見て最大の偏異を有し、最も隔絶した分布の様相を呈する」

 研究は単に血液型のみにとどまらず、アイヌ部落の分布や方言、通婚、歴史などの多岐に渡っている。弘前について言えば、そのルーツは北秋田地方から陸路入ってきた人々と、土着住民(アイヌの混血?)が混じったものとして結論している。

 この研究の今日的な価値は、津軽人のルーツを探るという点では非常に大きい。戦前では都市部を除き、いわゆる通婚圏は非常に狭く、ほぼ12km(3里)の中で行われ、外部との婚姻は少なく、他地域からの混血は少ない。本書にも各地の通婚圏を調べているが、例えば平地にある堀越村(現弘前市)では、平地からの配偶者(ほぼ同一地域)は60.0%、南津軽郡(近隣のところ)からは25.7%、山地から(近くの山間部にすむ人)は9.4%、その他東、西、北津軽郡からは0.7%となっている。県外からの配偶者はほとんどいない。現在では、いくら弘前とはいえ、こんなに通婚圏は狭くなく、かなり外部の血が混じっている。それ故、戦前の数値は狭い地域の特徴を今以上にクリアーに現す。

 もうひとつは、現在の研究では、プライバシーの保護と被験者の同意がやかましく、すべての研究、調査には倫理委員会ないしはそれに準じた機関の承認を必要とする。今の時代ではとてもじゃないがこんな研究は不可能かもしれない。

 松木はこの研究後も民俗学、言語学へと傾倒していくが、常に津軽の地を愛した。

 蛇足であるが、本書の余論に有名な安寿と厨子王伝説が紹介されている。津軽の伝承では安寿姫と厨子王は津軽の人とされ、故郷に帰った厨子王は身代わりになった安寿姫の霊を阿曽部の森に祀ったところ、ここに美しい山が出来たのでこれを岩木山と名付けた。それ故、岩木山の神は山椒大夫の故郷、丹後のひとをひどく嫌い、もしも一人でも丹後のひとが津軽に入ると、天候が荒れるという。天候が荒れる時は、丹後の者が入り込んでいるのはないかと非常に詮議され、見つかれば即刻領外へ追放した。藩政時代、天候が不順な時は、必ず国中に布令を出して、碇泊の船はもちろんのこと他国からの興行物などはみなその生国を改め、丹後の者は決して入国を許されなかった。

 丹後のひとにはかわいそうだが、こんな言い伝えが流布でされているのではしょうがない。

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