2008年10月18日土曜日
津軽の愛すべきもつけ・じょっぱり
津軽弁の「もつけ」とは、調子にのりやすい(飲めと言われれば飲み、踊れと言われれば踊る人)ひょうきん者 ・変わり者 ということらしい。何かにつかれたように、そのものだけに熱中するひともこのもつけと呼ばれるが、こういったひとは津軽の地には多い。
司馬遼太郎の北のまほろばに、次のような文章がある。「以前、韓国に知識人が「日本史でうらやましいのは、奇人や変人が多いことです。」といってくれたことを思い出した。他から命ぜられたり、そのことによって利益を得るわけでもないのに、自分が決めた何事かをなしとげるのが奇人とすれば、青森県にはそういった精神の風土がありそうである。」
山田良政、純三郎兄弟は、中国革命、孫文もつけと呼べようし、笹森儀助は探検、調査もつけ、本多庸一はキリスト教もつけ、前田光世は格闘技もつけ、陸羯南はジャナリストもつけ、葛西善蔵は小説もつけ、東北きっての社会福祉施設を作った佐々木五三郎(写真)も慈善もつけと言ってもよいほど、人生そのものを犠牲にして何事かに熱中した。日露戦争中に中隊規模で敵地を攻撃した一戸兵衛も軍事もつけと呼んでよさそうだし、外交一筋で海外とやりあった珍田捨巳も外交もつけと呼べよう。
こういった個性の強い、独自の生き方をするひとの系譜は、今なお津軽には流れており、先に紹介した無農薬、無肥料でにリンゴ栽培を行っている木村秋則さんや食材のすべての自給自足を目指すイタリア料理の笹森通彰さんも、がっちりこの系譜に連なる。また日本では全く評価されなくても独自の絵画を目指し、今や最も注目されている現代アーティストの奈良美智さんも、そうであろうし、こんな小さな街で独自の演劇を試行し、国際的にも評価の高い弘前劇場の長谷川孝治や、寺山修司にも言える。
明治以降の教育とは国民に画一的な教育を施し、点数のみにより評価するもので、こういった特徴ある人物は創られない。それなのに弘前の地ではいまだに、個性のある人物が輩出する。ただ時代の流れによるのか、近年は芸術家が主体をなしているが。
山田兄弟においては、こういった個性が地方に埋没せず、活動できたのは、陸羯南、一戸兵衛、菊池九郎などの郷土の先輩や後藤新平、児玉源太郎、満鉄理事の犬塚信太郎のひきがあったためだろう。近年、有能な若者が郷土から出ても、郷土の年配者や有力者によるひきが少ないことも、芸術以外で中央や世界で活躍するひとが少ない理由であるかもしれない。
以前大学にいた時、医局の講演でよんだ東北大学歯学部口腔外科の手島教授を空港まで出迎えたことがあった。手島教授は医局に来ると、ちょっと紹介したいひとがいると言われ、私のような新米助手を医学部長にところまでわざわざつれていって紹介してくれたことがある。また山田兄弟のことで東京に行ったときには、ある人物がわざわざ人を集めていただき、面識をもつように仕向けてくれたこともある。愛知大学主催の講演会では受付にいたひと、実は愛知大学OB会の顧問の方だが、教授はじめ色々なひとにその場で紹介いただき、大変ありがたかった。このような目上のものが、若い人を重要な人物に引き合わせることは、東京などの都会では割と行われているのいかもしれないが、残念ながら弘前ではこういった経験はない。
こんなことを考えていると、近所にももつけ、じょっぱりのひとがたくさんいるようで、リンゴ用のはしごを作っているところや、あけび細工の店、豆腐屋、納豆屋、畳屋、のこぎり屋?や銭湯などもあり、今時こんな商売本当にやっていけるかと思われる、東京や大阪ではとっくに滅びている商売をがんこにやっているところがある。夏にはひとりで金魚を売り歩くおじさんもいる(最近は見かけないが)。
11月8日に弘前文化センターにて東奥日報主催で「津軽・偉人を生む風土」笹森儀助書簡集発刊記念シンポが開催され、小林和幸教授はじめ多数の学者によるパネルディスカッションがある。残念ながら土曜日は仕事が忙しくて参加できないが。こういった津軽のもつけに対する学問的なディスカッションが行われると思われる。
愛すべき津軽のもつけ・じょっぱり、万歳!
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