2008年9月30日火曜日
山田兄弟17
総理大臣となった麻生太郎首相の座右の銘は「天下為公」であり、中国の古典「礼記」の一節である。自分の政策集団の名前も「為公会」と名付けるほど、この言葉が好きなようだ。天下は権力者の私物ではなく、公(そこに暮らす全ての人々)の為のものであるという意味らしい。
この言葉は、孫文が最も愛した言葉であり、山田純三郎に送られた書にも書かれており、多くの人にも頼まれるとこの言葉を揮毫した。「大道之行也 天下為公」で一対であるようで、為すの意味に二通りの解釈があり、「天下は公になる」では“大道”(正道、常理)が正しく実践された時、天下は人々が共有するものとなる”と解釈され、「天下は公のため」では前者の解釈となる。孫文も麻生首相も後者の意味として用いているようだが、社会主義の国では大道が共産主義という言葉で置き換えると後者の意味となる。日本の首相の座右の銘が「天下為公」と報道されれば、これは台湾、中国の人々からみれば孫文を連想させるものであり、麻生首相はそこまで考えて座右の銘としたかはわからない。いずれにしても好意的に見られる戦術である。
麻生首相の祖父、吉田茂も、上の写真のように安東領事時代、山田、蒋介石の満州への革命工作の行状を本省に送っており、欧州勤務後の奉天領事、天津領事の時も、中国情報獲得のため山田とも面識があったと思われる。昭和10年の「孫文の雄図を懐ふ」(山田純三郎)の中にも、「孫氏は、突然どうも胃の具合がよくないと大分苦しげに訴えられた。当時のわが天津総領事の吉田茂君が、直ちに医師を呼んでくれた」の記載があり、面識があったようだ。安東領事の後、吉田はパリ講和会議に岳父牧野伸顕とともに訪欧し、そのままロンドンの日本大使館の一等書記として赴任する。ここでは昭和天皇ヨーロッパ外遊のお膳立てをすることになり、随員として参加した弘前出身の外交官珍田捨巳とともに行動する。珍田は岳父牧野の友人であり、パリ講和会議以来さらに親しい関係になったと思われる。天津領事の時には、珍田から山田純三郎のことを聞いて、面識があったのだろう。
麻生首相が孫文の愛した「天下為公」を座右の銘をする背景には、孫文を核とした日中、日台、アジアの友好平和のシグナルとしてとらえてもよいのかもしれない。
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