2008年9月28日日曜日
山田兄弟16
大正末年、孫文一本やりの山田純三郎と、清朝の復興を図るべきと主張した西本白川という、二人が上海の二大奇人であると言われていたようだ(同文書院記念報告VOL3)。当時の中国関係者の中でも、純三郎の孫文への傾倒は、いささか度を超え、奇人扱いされていたことがわかる。純三郎のこの想いは、生涯変わることはなく、常に心は孫文と一緒にあり、孫文亡き後も、孫文の思想に忠実にあろうとした。中国革命の初期の多くの活動家が、亡くなる、変節する中、純三郎はあくまで孫文に忠実で裏切ることはなかった。蒋介石との仲違いも、一説には宋美齢との結婚に反対したことによると言われているが、蒋介石と孫文の思想の違いが原因となっていると思われる。純三郎からすれば、蒋介石は自分の友人、同士である陳其美の弟分に当たり、遠慮なく、孫文の遺志の貫通をせまったのであろう。
菊池良一は、県立青森中学?卒業後、京都帝国大学法科に進学し、弁護士などをやりながら、中国関係の商社などを経営し、その後、父菊池九郎の後を継ぎ、衆議院議員となった。前に言ったが、純三郎のいとこであり、父の妹の息子、自分の母の姉の子でもある。幼少時から仲の良かった親類であり、中国革命についても自然に純三郎の運動に参加するようになったのだろう。純三郎は1876年生まれ、菊池は1879年生まれで、ほぼ同年代であった。
志学会が発行した「日中提携してアジアを興す」の中に、「人間 蒋介石」(菊池良一 事業之日本 1937 昭和12年)という論文が載っている。純三郎との活動、蒋介石との関連をその中で述べているが、最後の部分を一部省略して紹介したい。
「我々がその絶滅を望む排日の思想が全然、支那国民の間から射払し去ることは冷静に考えた場合不可能ではないかと考える。抗日は一つの思想として支那の国民に与えられてしまった。然も支那人はご承知の様に宣伝が巧みであり、同時にこの宣伝力に乗ることも巧みな国民である。既に宣伝に乗ってしまった支那人が、この執拗な性格から的外れではあるが、抗日 失地回復 等の御題目を今後引っ込めるかどうかは一つの疑問である。 略 最後に今次事変を通じて支那国民の迷夢の覚醒のために与えたいものは、中央党部に巣食う英国勢力と、全体的蘇連勢力の徹底駆逐による自覚への具体的なる道を示すことであると確信する。」
昭和12年ということを考えると日中関係に対する実に冷静な分析であり、純三郎の考えとも一致する。今の日中関係、日韓関係に相通じる考えである。そういった意味では菊池良一も中国情勢には熟知しており、父と関連がある青森の人物、例えば外交官珍田捨巳や軍人一戸兵衛などを通じて、原敬、犬養毅などの政界の有力者と孫文、純三郎との仲買をし、中国革命を支援したのであろう。
菊池良一は第14回衆議院議員(1920)に憲政会から出馬して当選するが、その後も政党を変えたり、選挙に落選したりもしたが、政治活動を続ける。当時の衆議院議員をみると、ほとんどの名前は今や忘れ去れ、歴史の上からみると、菊池の業績も国会議員のそれではなく、孫文の同士としての側面が強い。衆議院議員と言えば、今でも名士で権力を握っている存在だが、50年後はすべて無名化するのだろう。菊池や純三郎の名は、孫文の名が歴史に残る限り、その協力者として100年後も残り続けるだろう。歴史の皮肉である。残念なことに菊池良一は1945年に亡くなる。もう少し生きていれば、戦後の日中友好にとって重要な人物になったであろう。
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