2008年9月13日土曜日

山田兄弟15


 青森の地元新聞の東奥日報で、9月8日から「津軽の生んだ国際人 山田良政・純三郎兄弟」と題されたコラムが4回に分けて掲載された。著者は愛知大学東亜同門書院大学記念センター 武井義和先生で、一回目は「孫文に出会う」、その後「兄の遺志を継承」、「中国革命之友」、「膨大な資料」と、山田兄弟の生涯と愛知大学との関連を簡潔にまとめたものである。7月に弘前市駅前市民ホールで行われた「津軽が生んだ山田良政・純三郎兄弟をめぐって」の資料展示会、講演会に関連した記事であるが、こういった形で山田兄弟のことを紹介してくれるのは、本当にありがたいことであり、うれしい。愛知大学の先生方には感謝する。

 愛知大学の残っている山田兄弟の資料は、純三郎の四男故順造氏より寄贈されたもので、「山田家資料」と大学では称されているようだ。膨大な資料であり、武井先生も日中関係史解明へ積極的に活用していかなくてはいけないと述べているが、まさしくその通りである。歴史資料は一次、二次資料といった分類がなされているようで、本人が直接しゃべった、それを書いた、それを又聞きした、引用したといった具合に直接資料から遠ざかるほど、うそも混じってくる。山田の資料は、その人柄を反映してか、うそは少ない。今読むと、当時の軍部寄り、反共産主義の発言も多いが、それを今の視点から論じるのは卑怯であり、当時の状況の中で読み解く必要があろう。

 例えば、あの悪名高い、日本の中国侵略のシンボルとされる「二十一カ条要求(日華条約」にしても、当時はそれほど深刻には考えられておらず、それとほぼ内容が同じの「日中盟約」が孫文、陳其美と山田純三郎、満鉄理事犬塚信太郎で締結されていた。孫文、山田にすれば白人に対抗して日中が提携してアジア情勢の安定を図る、そのためには日本の軍事力と資金を仰ぐのは、そうまちがったこととは思っていなかっただろう。ただ権力闘争の口実を与えたことは確実で、孫文失脚、日本からの分離を図りたい、袁世凱はこれを利用して、反日感情をあおった。実際、日本政府も要求の第5条は中国政府から主権侵害と非難されると、すべて削除されたが、これを境に日中関係は急展開して、一挙に反日運動に発展した。日本のアジア進出を快く思っていない欧米、アメリカ、イギリスの思惑もからんでいたのだろう。満州問題にしても、孫文のそもそもの革命の目的は、清王朝の打倒と漢民族国家の樹立であり、長城より北の満州は漢民族にとって異民族の国であり、また多くの軍閥の割拠する無政府状態であった。ソビエトの南進を抑える防波堤としてむしろ日本による統治を認めていたふしがある。今の考えからすれば、日中盟約も満州の日本統治の是認も、中国からすれば裏切り行為と見なされようが、混乱した広い中国を近代化し、欧米に負けない国家を成立するための、孫文のひとつの苦肉の選択肢だったのであろう。

 今泉潤太郎名誉教授の整理した山田家資料の手紙を見ると(同文書院記念報 vol4)、多くの中国国民党要人からの手紙に混じり、軍関係者からの手紙も多い。弘前出身の浅田良逸陸軍中将(笹森順造兄)や一戸兵衛大将、東海勇三少将(陸羯南長女の夫)らの名前の他、上原勇作大将や本庄繁大将からの礼状や、磯谷廉介中将や福田良三中将からは終戦後の獄中で大変世話になったことへの感謝の手紙もある。磯谷や福田は戦後戦犯となった人物であり、戦前はそれこそちやほやされていても、普通終戦後はあまり関わりたくない人物であったろうが、純三郎は獄中のこれらの人物にも世話を焼いている。純三郎の人間としての暖かさを感じる。

 山田家資料を寄贈した順造は、生前山田兄弟の伝記を書くのを熱望していたようだが、郷土の津軽藩に異常な執着を持っており、津軽藩と辛亥革命の類似点にページ数を使ってしまい、肝心の伝記には入らずじまいであったようだ。本当の意味での資料は山田純三郎、順造の
頭の中にあったと思うと、何らかの文章として後世に残してくれなかったことが悔やまれる。ただ幸運なことに資料の多くは、愛知大学に貴重に保管されており、また台湾、中国との共同研究も進めば、山田兄弟の全容ははっきりするであろう。

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