2009年11月8日日曜日

山田純三郎没後50年墓前祭



 本日、11月8日の午後1時から弘前市新寺町の貞昌寺にて山田純三郎の没後50周忌墓前祭が行われた。秋日和の暖かい天気の中、東京から3名、青森から9名の、計12名の参加者があり、ささやかではあるが、思いのこもった墓前祭が行うことができた。霊前には今回の墓前祭に合わせたように発刊されたちくま文庫「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(保阪正康著)を供えた。感無量である。

 東京のTさんの弘前、つがるへの思い入れは強く、2000年には山田良政没後100年の墓前祭もHさんのご尽力で行われ、今回もすべてのお膳立てをしていただき、Tさんには本当に感謝する。

 山田純三郎は1960年2月18日に84歳の生涯を全うして東京で死去したため、その墓は東京にあるが、今回こういった形で早めではあるが、生まれ故郷の弘前で何とか50周忌をできたことは、供養にもなったろうし、弘前市民としての面目も立った。おそらく来年も弘前市としては何の行事もないため、次の記念事業をするとなると75年、100年記念事業と随分先になる。今回弘前で何もなければ本当に恥ずかしいことであった。

 墓前祭終了後の座談会では、前日台湾の駐日大使の相当する人がやってきたこと、また中国政府の関係者もくる予定であったことが報告された。台湾、中国間の関係は近年急速に接近してきたが、それでも台湾政府と中国政府が日本で会う機会は、中国革命に参加し、孫文の忠実な同志の碑がある、ここ弘前以外あまりないであろう。

 その座談会では、司馬遼太郎の「津軽には陸羯南を研究するひとはいない」という批判に対して、地元弘前の有志が発奮して、各種の陸羯南の紹介がなされ、ようやくここ数年で陸羯南の認知度が高まり、市民権が得られたが、山田兄弟についてはまだまだだとされた。全く同感である。弘前の友人に聞いても、山田兄弟のことを知っているひとはほとんどいないのが現状である。台湾からきた患者さんのお父さんのSさんも、台湾では宮崎兄弟(民蔵と滔天)については非常によく知られているが、山田兄弟ことを知るひとは少ないと言っていた。当日配布された資料(陸奥新報?)には津軽奇人こ物語 山田純三郎の巻で、中国問題の専門家Sさんの言葉として「滔天は文章が巧く、浪曲の名人の桃中軒雲右エ門と組んで有名だが実際は何もしていない。上海の山田純三郎宅に泊まり、毎日のように酒ばかり飲んでいた」と書かれている。これは宮崎滔天のあまりにこき下ろした言い草で、中国革命に対する滔天の貢献は非常に大きい。ただ中国革命を通じて実際に参加して、孫文亡き後も、孫文の遺志を受け継ぎ、革命精神を継承したのは山田良政であり、純三郎である。宮崎滔天がよく知られているというより、むしろその功績に比べて山田兄弟があまりにも評価が低いのである。これは山田兄弟自身が名を後世に残そうとする気持ちが全くなかったことによるであろうし、地元津軽、弘前のひとがあまりに冷たかったことにもよる。存外、地元弘前より東京、あるいは台湾、中国のひとの方が興味があるようで、この貞昌寺の碑も案内するとびっくりするようである。

 このブログではこういった弘前の偉人を紹介してきた。これらのひとに共通することは、皆名誉も金も求めず、義のためにその生涯を捧げた。笹森儀助は沖縄のひとのために、山田兄弟は中国のひとのために、珍田捨巳は海外日本人移住者のために、津軽とは全くかけ離れた世界の思いを馳せ、奮闘してきた。そこには津軽という風土に根ざした共通の精神がある。青森というと田舎と若い人は劣等感を抱くかもしれないが、100年前に郷土の先輩は今よりもっと僻地にありながら、視野の広い生き様をしてきた。自信を持つべきで、是非ともこの津軽から、弘前から、できれば東奥義塾から世界に羽ばたく人物を将来でてほしいと切に願う。

2 件のコメント:

や~やど さんのコメント...

東京の谷中(全生庵)にある、山田良政の碑を時々拝んでいます。
 弘前での墓前祭に、地元からの参加者がいないとは、驚きますね。 

広瀬寿秀 さんのコメント...

今回はほとんど事前に宣伝しなかったため参加者が少なかったようです。それでも認知度は低いのですが。