2012年9月7日金曜日

兼松しほ

 



 兼松しほは、弘前藩の儒学者、兼松石居の長女で、兼松本家久通の長男穀(やごろ)に嫁いだ。親は弘前藩を代表する学者で、しほもそういった家庭環境に育ち、学びたいという強い熱情はあっただろうが、江戸末期の状況ではそういったことも許されなかった。元々、穀は体が弱く、子もないまま、明治5年3月21日に亡くなった。享年35歳であった。しほ、29歳の時である。これから見ると兼松しほの生まれは、1844年ころとなる。

 穀の亡くなる前のこととなろうが、兼松本家では血縁を絶やさないため、しほの弟で、穀の妹と結婚していた兼松石居の三男、郎(いつら)を養子に迎えた。しほの弟が、息子になったわけである。

 東奥義塾に小学科女子部ができたのは、明治8年であり、この年の女子生徒は66名であった。この女子部の先生の中に、兼松しほの名がある。3時に授業が終わると、しほはイング婦人に熱心に英語の教えを受けた。父親、石居が東奥義塾の創立者で、学問的にも優れた兼松しほが女子部の先生になるのは当然であろう。明治9年の女子部の先生は、中田仲、菊池きく、そして兼松しほの3名で、明治11年には脇山つやが入る。兼松しほは女子部でも最も古い教師であり、青森県の女子教育の最初に関与した人物である。兼松しほはその後、函館でさらに勉強したと言われるが、おそらく函館の遺愛女学校ができたのが明治15年、ここで英語の勉強をしたのであろう。明治15年というと、西暦で1882年、兼松しほ、38歳である。当時の感覚からすれば、完全に中年の領域で、この年齢でさらに西洋のことを学ぼうとしている。

 その後、上京して津軽家に仕えたと聞いたことがあるが、ある程度わかったので、報告する。兼松石居は津軽藩主承昭の招きで津軽藩の由来を調べるために上京したが、その折、承昭の継室、近衛家出の津軽尹子(ただこ)の娘、お理喜様の養育、教育を頼まれたのであろう。そこで自分の娘、しほを養育係として送ったようだ。名前をしほから益子に改名し、明治29年9月3日に腸チフスで亡くなるまで、お理喜様の養育、教育を担当した。津軽理喜子は、東京女学館の第一回卒業生で、津軽行雅と結婚し、男爵津軽承靖の母となる。

 ここの面白い資料がある。近代デジタルライブラリーに明治33年発行の「明治才媛美譚」という書が収められていて、内容をインターネットでみることができる。その75ページに津軽理喜子の身の回りすべての世話をした、生活一般の先生としてしほの名が登場する。しほのことをあたかも母のごとく慕い、明治3054歳でなくなった時は、父母を失ったように嘆き悲しみ、その命日には必ず墓参したという。

 兼松しはの生まれたのは、1844年ころ。明治になったのが、23歳の時で、完全に近代教育を受けるのは遅すぎる世代で、これほど向学心に燃えた女子にとっては何とも生まれ合わせが悪く、かわいそうな気がする。せめて十年後に生まれたら、こういった才気のある女性はもっと活躍できたのかもしれない。いずれにしても、結婚、夫の死去にもめげず、東奥義塾の教師、函館への留学、そして藩主の娘の養育と、一生懸命生きた人生であった。

 上の写真は、津軽尹子の写真、中は東京女学館の記念写真で前列右から2番目が津軽理喜子、下は津軽家家系である。

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