2019年11月13日水曜日

佐藤弥六の書

佐藤弥六の書

陸奥評林

佐藤弥六

 佐藤弥六の書がヤフーオークションに5000円で出ていたので、思わず買ってしまった。佐藤弥六は、少年倶楽部で有名な佐藤紅緑の父で、小説家の佐藤愛子、詩人のサトウハチローの祖父となる。

 佐藤弥六は天保13年(1842)の生まれで、亡くなったのが大正12年(1923)なので、大正122月のこの書は最晩年の書と言える。サインには八十二翁弥六書となっているが、数え年齢で言えば82歳となる。

 内容については、詳しくはわからないが、人生訓のようなことが書かれている。佐藤弥六は天保13年の生まれ、第12代将軍、徳川家慶の時代で、水野忠邦のよる天保の改革は始まった頃である。徳川時代後期となる。まだまだ幕府がなくなるような気配は全くない。ペリーが浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)、弥六は11歳の頃となる。幼少から秀才の誉れ高い弥六は藩学校の稽古館で学び、弘前藩記事によれば文久2年(1862)に弘前藩で海軍を作るために、船具軍用学取得目的で江戸に留学させ、勝麟太郎の塾で学ばせた。他には樋口左馬之助が蒸気機関学の取得を命じられている。18歳にして弘前藩から海軍学を学ぶように選抜されたことは、弥六の優秀性を示している。その後、弥六は英語勉強のために慶応元年520日、慶應義塾に入塾している。勝塾は坂本龍馬がいた神戸海軍操練所ではなく、江戸の塾であろう。その後、勝は慶応元年に海軍奉行を罷免され、蟄居生活となるが、弥六はその年の5月に福澤塾に入塾した。“幕末から明治初期の国内留学事情—洋学修行を志した津軽のサムライ”(保村和良、東北女子大学紀要、53:112-120.2014)によれば、福澤諭吉は「佐藤弥六罷り越し候。ピストルも買い入れ候積もり。この人はご承知も可有之、フェースフール(信頼の置ける、faithful)之人物に御座候。厚く御周旋被成遣可然奉存知候。塾に居候人とて尽く正しき人物斗りに無之、みちもすれば不正不信之ものも出来申候。人物之見分け、交も自ら厚薄有之義御心得迄申上候」と福澤は弥六を信頼の置ける人物と高く評価している。また“幕末・明治初期の弘前藩と慶應義塾—「江戸日記」を資料にして”(坂井達朗、近代日本研究)では、福澤の手紙では「この人は佐藤弥六と申し、旧津軽藩士、本塾へは多年寄宿、人物はたしかにして、少し商売を考えこれあり、失敗は致候得共、丸屋にも大いに関係して、早矢仕(はやしゆうてき)君もよく知るところなり。過般出府のところ、これと申し仕事もこれなく、就ては真利宝会社中として、弘前に居ながら相勤め、青森地方のことを引受候様の出来申間布哉」と書かれており、福澤は塾の会計を弥六に任せていた。のちに福澤はオランダ公使として弥六を推薦している。

 ここまでの弥六の履歴は、明治初期の人物としては相当、洋学(英学)に秀でており、そのまま行けば、留学し、その後は新政府の役人や教育家になったろう。ところが弥六のすごいのはここからで、故郷、弘前で兄が亡くなると、佐藤家を継ぐことと兄の子を育てるために、兄の妻を娶り弘前に戻った。弘前藩の英学寮の開設に当たっては、慶應義塾から永島貞次郎と吉川泰次郎の派遣に尽力し、明治4年には出来たばかりの青森英学寮の舎監をしていた。廃藩置県後は、きっぱりと洋学を捨て、商売人となり、郷土史に打ち込んだ。ただ相当にへんこつな人物で、商売人になったが、金を汚いとしゃもじに金を載せて客に渡したという。

 こういう人物であるので皆からは恐れられ、どこへ行っても正論を吐く。政府高官、校長と皆から尊敬されていても、弥六にとっては小人でボロカスであり、納得がいかないとこき下ろす。ただの変人ではなく、最高の学識を持つ人物だけに何か言われても反論できない。この書も内容はあまりわからないが、晩年になっても、その反骨精神は健在である。

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