2014年9月8日月曜日

天守閣、白土塀の復元 2






 弘前城の本丸御殿は、明治の早い時期に壊されたが、白土塀はもう少し後まで残っていたようで、明治10年ころの写真をみても、本丸御殿の大屋根はなくなっているが、天守閣に続く白土塀は残っている。

 白土塀が写っている明治初期の写真が、現在どの程度残っているか不明であるが、インターネット上で調べたところ、ここに載せた4枚が見つかった。ただ写真を詳細に見ていくと、いくつかの不明な箇所がある。

 最初の写真では、天守閣から中門に続く白土塀の一部が、黒くなっていて、板で覆っているような箇所が見られる。3枚目の写真では端まで白い土塀が続いているが、一番目の写真より距離が長いような感じがする。

 4枚目の写真では東堀に沿った白土塀の一部が少し膨らんでいるように見え、連続した白土塀ではなく、一部は張り出した構造なのかもしれない。いずれの写真も不鮮明なので、詳細ははっきりしない。白土塀の屋根の構造、厚みなど写真だけでははっきりせず、図面や本丸側から写した写真も欲しいところである。

 こういった資料をもとに復元図が描かれているが、天守閣とそれに続く白土塀については、「復元城郭模型・お城ジオラマで見る日本の名城by:甲冑屋」(http://blogs.yahoo.co.jp/katuuya2012/32234063.html#32234063)で紹介している弘前城復元模型がわかりやすい。模型では縮尺の関係で低い方の白土塀の屋根覆いは表現されていないが、腰掛屯所や見張所は模型に見られるように、天守閣に続いた構造物と考えた方がよさそうである。

 白土塀のない、現状の天守閣のみがぽつんとある風景がいいのか、あるいは天守閣に続く白土塀があった方がいいのかは、意見の分かれるところであり、弘前城は弘前市民のシンボルであるからして、大いに議論してほしいところである。ただ現状では、今回の石垣修復工事に伴う発掘調査でも不明な点が多いと思われる。

 弘前で最初に写真館ができたのは明治四年の田井写真館で、当時はまだ弘前城本丸御殿、白土塀も健在で、もし田井晨善が弘前城を撮ったなら、ここで示した4枚の写真以外にもある可能性があるし、誰かが写生した絵もあるかもしれない。私としては、石垣工事が完成した折には是非とも白土塀も復元してほしいし、名古屋城や熊本城のような本丸御殿の復元もできれば、観光客の増加も見込めることだろう。

ps:昨日は弘前大学で2014年度のシニアサマーカレッジがあり、明治二年弘前絵図を素材に一時間半ほど、おそまつな話をしてきた。19名の参加者があり、最高年齢の方は86歳であった。老いても学ぼうとする姿勢には、こちらの方がむしろ教えられた機会であった。
                                                                                                

2 件のコメント:

三上直樹 さんのコメント...

広瀬先生、こんばんは。
津軽塗の件もですが、今日は出前講座で白土塀のことも話題になったので、Blogに書いておきました。
私もぜひ修復が実現してほしいと思っています。

広瀬寿秀 さんのコメント...

白土塀については、今のままの方がいいと言う人もいると思いますが、発掘調査というものは目的がなければ、適当になされます。白土塀の復元という目的があれば、しっかりとするでしょう。