2007年10月7日日曜日

一戸兵衛 4



一戸大将は漢詩を愛し、造詣も深かったが、こんなエピソードがある。
「自分は幼少のころ、『実語教』とういものを父から習った。その中に『山高キガ故ニ尚カラズ。木アルガ故ニ尚シトス。人肥エタルガ故ニ尚カラズ。智アルガ故ニ尚シトス』ということが書いてある。私はどうしても、この『山高キ』の『高キ』がおぼえられず、また『ガ』ということがおぼえられなかった。出来ないと父に頭をコツンと叩かれる。それがくやしいので、どうしてもおぼえなければならない。カナ字をつけようにとしても、それを知らない。仕方ないから、本に鳥の絵をかいておいて『山高キ』の下にゆくと、鳥の絵をみて、鳥はガーガーとなくから『ガ』だと思い出して『山高キガ故ニ』と読んだものだ。それから一通り分かってきたら、好きになってよく覚えた。」 菊池九郎もそうだが、幼少期の漢文の素読を難しかったようだ。

弘前出身で山田純三郎のおいでもある佐藤慎一郎は
「一戸家と佐藤家とは親戚関係にあるが、叔母の話では、青春時代、一戸兵衛には秘かに恋した女性があった。たまたま上京して、その女性が一人の紳士といとも睦まじく、馬車に乗っているのを見て、ものすごくショックを受けた。そのとき、少年の胸には大きな憤りと悲しみ、そして『いまにみろ』という不撓不屈の炎がもえあがったという」  後半は少し飛躍していると思う。

弘前中学の成田豊実先生は
「一戸大将は、弘前の護国館の初代館長をされたり、東奥義塾に多額の寄付をされるなど、郷土を深く愛していたが、反面、津軽人を嫌っていた面もある。それは『一戸は少年時代不良であった』とか、『一戸の家は昔、おれの家の借子だった』と、とかく大将の悪口をいう者があったためである」 太宰治も同じようなことを『津軽』で書いているが、このような傾向はいまだにあるようである。どうも津軽人はややひねくれたところがあり、偉いひとをみると賞賛することをよしとせず、何かけなすところがないか探す傾向がある。そのため気候がきびしいせいもあるが、功成り遂げると故郷に帰らない。

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