2007年6月27日水曜日

笹森順造3


日本ローターリクラブの創立者の米山梅吉と弘前の関連は深く、笹森と東奥義塾も米山には世話になっている。先日の弘前ロータリークラブの夜間フォーラムで配布した文章を載せる。
「米山梅吉と弘前」
日本ロータリーの創始者である米山梅吉と弘前の関連は深い。米山の生涯で最も影響を受けた人物は、明治期の日本を代表するキリスト教指導者で弘前出身の本多庸一(1848-1912)である。庸一は津軽藩本多東作の長男として弘前市在府町3番地(現弘前大学医学部正門前)に生まれた。その祖先は家康の養女満天姫の輿入れとともに弘前に来たといわれ、父は300石の禄をはむ上級武士であった。藩の命令で横浜に英語を学びに行った折に宣教師ブラウン婦人に感化を受け、明治5年に洗礼を受け、キリスト教徒となった。「キリスト教はいかんが、本多の耶蘇教ならいい」、「本多の耶蘇なら本物だろう」といって、多くの信者が生まれたというエピソードがあるくらい庸一の入信は多くの津軽人に影響を与えた。その後、東奥義塾の塾長となり、教育と伝道に明け暮れるかたわら、自由民権運動にも加わり、県会議員や議長なども勤めた。
 一方、米山梅吉(1868-1946)は、早くからアメリカ留学を志し、明治18年に語学勉強のために、東京英和学校(のちの青山学院)に入学した。ここでの教師には後の外務次官となる弘前出身の珍田捨巳がいて、知己を得ている。渡米した米山はサンフランシスコで留学中の庸一と会い、強い影響を受けた。後に青山学院での講演で「一夜、食後談も尽き、室の机の上の紙に徒ら書きなどをしていた間に、先生(庸一)はさも私の注意を惹くかの如く、「巧遅」と「拙速」の四字を二度も三度も書いてみせるのであった。先生は私の欠点を知り抜いて、私の注意し。私を訓へられたのであった。私は以来之を忘れたことはなく、事に臨む毎に思い出して座右の銘にしているのである」と語っている。
 青山学院の日本人としての初代、実質的には創始者となった庸一は1890-1907年という17年間に渡り、院長を勤め、青山学院の土台を作った。明治40年に青山学院を辞任した庸一は日本メソジスト教会の監督として日本各地を伝道していたが、明治45年にチフスにかかり亡くなった。
 庸一を尊敬していた米山だが、キリスト教化された武士と言われる厳格な庸一は近寄りがたく、またキリスト教への傾斜を恐れたのか、庸一の院長時代には青山学院にはあまり関係していない。庸一の死後、青山学院の支援に乗り出す。米山は昭和8年には青山学院の院長に強く推されたが、「自分は酒も煙草ものむ俗人だから」と言って断り、かわりに弘前出身の阿部義宗を第5代院長に推した。
 庸一の起こした東奥義塾は、その後経営難となり、大正2年(1913)には廃校となっていた。この再興にための塾長となったのが笹森順造(1886-1876)である。大正13年には義塾には5万円の基本金が必要となったが、どうしても5千円足りず、郷土の先輩珍田捨巳に相談に行ったところ、紹介されたのが、米山であった。笹森より19歳年長で、ほぼ米山と庸一の年齢差である。日本橋にある三井信託銀行の社長室に米山を訪ねた笹森がおそるおそる5千円の援助を求めたところ、ああそうですかといった調子で即座に米山は援助を承諾した。その後も笹森が欧米旅行の行った際の費用や三井物産の海外支店が旅行のサポートをおこなった。笹森の姿の後に尊敬する庸一の姿を見たのであろう。
 昭和14年の夏に米山は、阿部義宗の後の青山学院院長の招聘のために弘前の笹森を訪ねた。軍部の力が強くなった当時、キリスト教関係の学校はきびしい状況であった。その状況を打破する院長として米山が選んだのが笹森であった。世話になった米山の熱願に負け、笹森は第6代の院長に就任した。
 米山は私財を投じて後の青山学院附属となる緑岡小学校と幼稚園を寄贈し、米山が小学校校長、妻はるが幼稚園園長として運営した。昭和20年、空襲の激しくなった疎開先として選んだのはゆかりの深い弘前であった。
 米山はアメリカで庸一と出会い、その真摯な奉仕の精神に圧倒された。この出会いがなければ後の日本ロータリーの設立もなかったかもしれない。米山にとっての弘前は、本多庸一の生まれ故郷として思い出深いところであったのであろう。

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