2010年9月5日日曜日

山田兄弟29





 櫛引武四郎については、何度かこのブログでも触れたが、文献がほとんどなく、詳細はわかっていない。

 珍田捨己が昭和3年に書いた「櫛引錯斎先生」という文の中に次のような記述がある。

「先生には五男一女があった。長は英八(櫛引英八)、次は工藤(工藤行幹)の姓を昌し、次は女子、三男、五男は夭折し、四男(櫛引晴四郎)は桑村家に養われた。両兄(櫛引、工藤兄弟)は常に国事に莽走していたので、其家事向から子供の教育は大半弟の手に委せられ、弟は之れを吾が子の如く撫育し、而も先生伝統の硬教育で、或者は往復六里の道を通学せしめたり、或者は虚弱のため牛乳配達をさせられたりしたが、両兄はそれについては更に言を挿まなかった。殊に英八君の第四子武四郎は非常に頑固な性質であったので、或時之を麻縄で縛して、井戸の水の中に水とすれすれに1時間も釣り下げられた事もあった。而かも斯子は往年朝鮮の或る事件に連座し外務省では今も尚之を行方不明としている。」(伯爵珍田捨己伝 菊池武徳編 昭和13年)

 櫛引武四郎は大正2年(1913)の中国の第二革命で亡くなっているが、珍田は朝鮮の或る事件に連座し、昭和3年になっても、行方不明としている。珍田は昭和4年に亡くなるから、最晩年の記憶であろう。当時、珍田は侍従長をしており、外務省には直接関わっていないが、外務省の重鎮として、情報は十分に入っていたであろうし、工藤行幹、櫛引英八などの故郷の旧知から、武四郎の安否についての問い合わせもあったであろう。第二革命で亡くなったのを知っていながら、袁世凱を推した外務省、友人牧野伸顕に憚っての発言であったのだろうか、あるいはただの記憶違いか。

 Googleブックスで「櫛引武四郎」で検索すると、台湾で最近出版された張家鳳著「中山先生輿國際人士」(2010.7)が見つかった。中国語は不明だが、次のようなことが書かれているようだ?

「上海東亜同文書院ができた当時の院長は佐藤正、委員には佐々木四方志、山田良政らがいた。教務長は山口正一郎で、学生には山田純三郎、安永東之助、柴田麟次郎、大原信、櫛引武四郎ら19名がいた。佐藤正院長は着任後すぐに辞職し、同年陸軍少佐根津一が代理となった。」山田は明治9年生まれ、櫛引は明治8年生まれで、朝陽小学校、東奥義塾は同級ではなかったが、南京東亜同文書院の一回生では同級生であったことが確認される。

「今泉三八郎・佐賀県人・海軍兵学校退学生・常に沈黙寡言の風格をもつ青年で、中国二次革命初期に上海に来て革命軍に参加した。志村光治らと上海機器局上流に停泊している中国軍艦を爆破しようと計画した。 略  南京陥落した日、混乱した軍の中には志村以外にも、櫛引某(武四郎)、建部某ら、その他の者がいて、朝陽門のところで敵の襲撃にあった。その後、二人の敵を倒し、雨花臺にあった何海鳴司令部に逃げた。二次革命も南京戦からは、戦いが激しくなり、混乱して状況もはっきりしなくなる。指揮官の何海鳴に不満をもつ志村、今泉以外の、櫛引、福田ら多くの日本人が純真な気持ちから革命に参加し、軍事的な援助を行った。南京革命軍には10余名が参加していたが、彼らは状況が次第に危機的になっていることを知らなかった。言葉もわからないため、一時領事館に避難しようとしたが、途中多くものが官兵により殺害された。その中に今泉以外の櫛引、建部、秋葉らの3名がいた。」殺された死体の背広の裏には、「タ」の印があったことから、亡くなったのは建部とわかった。この建部は建部子爵(林田藩)の甥であったことから、家族が南京領事館に訴え、外務省でも困惑したようである。九州佐賀出身の林 傳作もこの戦いで肺に弾を受け、病院で亡くなった。かなりの数の血気にはやる元日本人軍人が、第二革命に参加しているようだ。文中の志村光治については、「同文書院記念報Vol4」の孫文、山田良政、純三郎関係資料の中に、山田順造宛の1962.10の手紙があり、住所は神奈川県横須賀市となっている。戦後、志村氏が当時の手記を残しているなら当時の詳細がわかるかもしれない。また同誌の山田純三郎年譜には1915年の項に、「東亜先覚志士記伝」598-611頁に上海機器局砲撃、肇和、広瑞(應瑞の間違い)二艦奪取計画となっているが、上記計画と類似したものか。

 ちなみに櫛引錯斎(儀三郎)の家は、弘前市鷹匠町にあった。上の明治2年弘前地図では鷹匠小路となっており、現在の住所では鷹匠町44番地、藤田記念庭園の下あたりになる。なお鷹匠町には成田滝弥の名前が見えるが、青森県のリンゴ作りの功労者、菊池楯衞の生まれたところである(菊池家に養子にでる)。
 下の地図では、中瓦ケ町に工藤行幹の家が見られる。櫛引の家から養子に行った先であろう。左4軒先に菊池元衞の名が見える。津軽信政公事績の著者として検索される。さらに菊池元衞の家の前に一戸谷弥の名前が見られる。一戸兵衛陸軍大将の実家である。生まれたのは父の実家である田代町の船水邸であるが、育ったのはこの家であろう。

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