2011年10月10日月曜日

黒石 金平成園




 昨日は天気がよく、電車で黒石に行ってきた。目的は金平成園(澤成園)が一般公開されたためである。この庭は平成18年に大石武学流の作風を伝える名庭として建物と一緒に国の名勝に指定されたが、その時に一般公開されて以来である。今回、やきそばサミットという全国の焼きそばを集めた催しがあり、それと関連して公開された。

 敷地は1700坪以上の広大なもので、工事が未完成のため、池にはいまだ水が張られていないが、個人の庭としてはみごとなものである。庭もすごいが、建物も贅を凝らしたもので、長い一本松を軒に用い、重い雪にも十分に耐えられるようになっている。これだけ長く、まっすぐな松は珍しいということであった。この母屋も修復がだいぶなされ、また別棟も以前は2階建てであったが、建築当時の平屋にすでに改築されていた。もう少しで庭と建物も修復が完了するといった状況である。

 関係者に少しお話を伺ったが、建物は一時料亭としても使われていたようで、母屋の裏からみる庭はさどかし美しい景色であったろう。庭のあちこちに往時の庭園の写真が飾っていたが、その中の一枚に金平成園を作った加藤宇兵衞とその子供たちが写っている写真があった。庭園完成後の写真であるから、明治35年(1902)以降のものである。加藤宇兵衞は生年は1862-1929であることから、40歳以降の写真で確か4人くらいの子供が写っている。以前紹介した岡村寧次大将の妻チエさんは1900年(明治33年)生まれであることから、もしこの写真にチエさんも写っているとすると、明治38年前後のものと思われる。岡村大将との結婚は昭和11年なので、岡村52歳、チエさん36歳ということになる。岡村は再婚だが、チエさんについては不明であるが、年齢的には再婚の可能性も高い。親類の方によれば、チエさんはドイツ留学の経験もあるとのことで、岡村との結婚前にドイツで暮らしたこともあるようだ。

 小学校は地元の黒石小学校に行き、その後、弘前高等女学校(現 弘前中央高校)あるいは、弘前女学校(現弘前学院)に進み、その後東京の学校に進学したのではと推測する。岡村は最初の妻と子供を亡くしており、チエさんとの間にも子供がいなかったようだ。

 今回の黒石では、この他にもこみせ通りの旧松の湯も公開され、これは昔の風呂屋はそのまま残っていて、おもしろかった。湯船と洗い場は銭湯にしては案外小さく10人も入れば、いっぱいになったであろう。一畳くらいの湯船がふたつあり、1mくらいの深さであった。昔の銭湯はこういう風に湯船が深く、子供たちは縁に掴まって入ったものだ。風呂の奥には住宅部があり、当時の生活が偲ばれる。

 弘前も物持ちのいい所で、古い建物が多く残っているが、黒石はさらに物持ちいいところで、私の友人も黒石は昭和のまま止まっており、なつかしいと何度も訪問している。金平成園、松の湯なども修復が完成すれば、さらに観光の諸点ができることになろう。加藤宇兵衞もこの庭園を観光客誘致にと考えていたようである。

0 件のコメント: