2018年1月3日水曜日

昔の尼崎




尼崎、東難波町 牧病院前 昭和30年代


 最近は「松本人志の放送室」というラジオ番組をYoutubeでよく聞いている。この番組はダウンタウンの松本さんと放送作家で同級生の高須光聖がいろいろな話題、とりわけ子供時代の話をよくしている。とくに面白いのは昔の尼崎とそれをとりまく人々のことで、松本さんと私とは7歳違いで、世代的にはかなり違うのだが、尼崎の状況はそれほど変わっていない。それにしても二人とも、とりわけ高須さんはよく昔のこと、それも細部をよく憶えていて感心する。久しぶりに小学校の卒業アルバムを見ても、半分くらいの名しかわからず、さらにその子との想い出はどうかと聞かれてもあまりでてこない。私たちのころは一学年6クラスで、2年間隔くらいでクラス替えがあったので、友人ができても、その度にリセットされ、クラスメイトで記憶に残っているのは6年の時だけである。それでも同級生のことを松本さんや高須さんほど憶えていない。

 この番組でもそうだが、尼崎人が尼崎を語ると、どうしても自虐的にならざるを得ない。ことに尼崎でも武庫之荘や塚口など阪急沿線の尼崎人は、「尼崎はガラが悪いと言っても阪急沿線はそうでもない」と多少抵抗するが、ダウンタウンの国鉄尼崎や私の生まれた阪神尼崎周辺の尼崎人は全く抵抗できない。人から「尼でっか」、「怖くて降りたことがない」などと言われると、抵抗するどころか、そうしたネタをもっと大袈裟の脅す傾向がある。私の場合は、尼崎の家の4m前には暴力団の組事務所があり、いつも警官が張り付いているので、いつも家の鍵を掛けずに外出すると言った話をする。もちろん嘘ではないが、実際に外出の場合は鍵を掛ける。松本さんは尼崎ではシミーズ姿で歩ける範囲は1kmくらいと言っているが、もちろん、こんなことはないが、そうした姿の女性はいたるところにいたし、刺青をしたおじさんも日常的にいた。そんな自虐的な尼崎人もかちんとくるのは、大阪西成区の釜ヶ崎に間違えられる時である。この時は、いくら何でもあそことは違うと否定する。また尼崎を離れて他県に住むようになると、とくに関西人以外の人に「ご出身はどこですか」と聞かれると、どうしても「大阪です」あるいは「兵庫です」と答え、さらに「大阪のどこですか」と聞かれて、ようやく「尼崎です」と答える。ここから先は聞かれることはほぼないが、去年、東京に行った時に運転手は、さらに「尼のどこですが」と聞くので、「東難波ですが、運転手さんはどこですか」と聞くと、「尾浜西口」と言うので、それ以降は話が盛り上がった。さらに別の機会に、伊丹空港からタクシーに乗り、「尼崎の東難波まで」というと、運転手は最近あった山口組の抗争の話ばっかりしていたが、次第にその組事務所が近づき、警備の警察官の姿をあちこちに見ると、組の関係者と思われたのか、かなりびびりだし、自宅の前に止まった時には、「○川組の前に住んでいるんですね」とほっとして話した。

 大阪弁と言うと、皆同じように思われているが、大阪でも河内や岸和田と大阪市内は違うし、神戸と阪神間とは違う。さらに言うと、尼崎と隣市の西宮とは幾分違うし、尼崎も阪急沿線と阪神沿線では少し違う。尼崎には鹿児島出身者が多く、人口の1/5がそうであり、さすがに鹿児島弁を使うことはないにしても、イントネーションが微妙に残り、それが尼崎に定着したとも言えよう。「松本人志の放送室」では、二人ともかなり東京暮らしが長く、変形されているが、それでも懐かしい尼崎弁が聞けてうれしい。あなた(you)のことをここでは「じぶんは」と言っているが、この表現や言い方が尼崎的であり、普段は汚い言葉も使わない。まあ柄の悪い町だったが、生まれてからここに過ごす者にとっては、懐かしいところで、悪い面以上に面白いところが多かった。

*年末に放映された「ダウンタウンのガキの使いやあらへんでSP」で、浜田の黒人モノマネとベッキーへのタイキックが大きな問題となっている。人種差別、女性への暴力などの人権的な問題から世界的な批判になりそうである。尼崎ではスタンダードであっても、日本あるいは世界のスタンダードにならないのは当たり前と言えば、当たり前である。

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