2019年4月1日月曜日

藤田(山田)とし 3


前回に続き、読者からお教えいただいた雑誌が、弘前図書館にあった。国会図書館にもないということなので、著作権の問題があるのだが(保護期間70年は過ぎているが)、2回に分けて紹介したい。


月刊東奥 (昭和1611月号、東奥日報社)

中国革命史に秘められた津軽に咲く清浄の花一輪
 たった一週間同棲した夫を待って四十二年 —故山田良政氏未亡人敏子刀自の貞烈感話—

日本の妻の心  ・英霊の陰に崇光な女性の涙・
大東亜共栄圏に呼び声は、国民にとって耳新しい言葉だが、その淵源は今は去ること遠く四十数年の昔、孫文の支那革命に呼応して起った日本人志士の熱血の行動にはじまっている。
アジアをアジア人の手で、と当時の目覚めた日本人青年ししは叫び、欧米の魔手を排除して明朗闊達、独立自往の大東亜を建設線と献身した。孫文はじめ辛亥革命の志士と、これら日本人ししは堅く血盟の誓いをなし、彼等の血を大地の土に染めた。
中にも弘前市出身山田良政氏は、早くより支那民族の覚醒を叫んで大東亜主義の鼓舞につとめ、孫文と肝胆相照らす仲であった。孫の革命の義挙に賛し、孫が広東省恵州に煙火をあげるやたちまちこれに馳せ参じ、恵州郊外三多祝の革命軍に投じて兵を起こした。不幸にも時期熟せず、革命軍は敗北のやむなきにいたったが、山田良政氏は敵の大軍を前に頑強の三多祝を守りつづけ、ついに革命戦の花と散った。時は明治三十三年九月二十九日、齢未だ三十三の若さであった。
かって孫文は『人道の犠牲、興亜の先覚』と氏を讃え、時移り歳変わって四十星霜、孫文の遺志を継ぐ中国国民政府主席王兆銘氏は、日本人志士と因縁深き陳中孚氏を特使として日本へ派し、本年九月三十日鶴見総持寺に於いて『日本同志援助中国革命追念碑』除幕式を行い、盛大を極めたのであった。『外国義士、中国共和のために犠牲となれるもの君を以て首となす』と孫文の語にもある通り、支那革命の日本人同志二百五十名のうち、山田良政氏は殉難者の筆頭である。
超えて秋晴れの十月八日、山田家の菩提寺たる弘前市新寺町貞昌寺に於いて山田良政氏の慰霊法要は厳かに行われた。参列者二百名、大導師赤石寛導師以下衆僧の読経より式ははじまり、故人の潰列を讃えた陳特使の祭文は読み上げられたが、遺族席の故良政氏の舎弟山田純三郎氏夫人の傍に仲睦まじく並んでいる上品な老婦人があった。年の頃は六十の坂を越え、つつましやかに頭を垂れているこの婦人こそは、故山田良政氏夫人敏子刀自で、僅か一週間の結婚生活で夫を大陸に送り、爾来四十二年の永い一生を孤閨を守って貞節を全うしたその人であった。
やがて焼香に移り、山田純三郎氏夫妻につづいて、敏子刀自はうやうやしく霊前に進み出でて合掌した。夫婦の二世の契りとは、かくまで美しいものであろうか。東亜建設の偉大なる犠牲者の陰には、かくも哀しくも崇高なる女性の涙があった。『義姉さん、義姉さん』とやさしく仕える純三郎夫人の傍にしずかな敏子刀自の姿に往年を知る参列の人達は、ひそかにむせび泣いていた。刀自の半生は、涙ぐましい自己犠牲と検診の歴史であった。最愛の妻を故郷に残し、遠い広東省の、地図にも見られないような三多祝に興亜の土と化した志士山田良政氏の壮大な意志と、一生を亡き夫に捧げた日本の妻の心情をおもうと参列の誰しもうたた感動胸に迫るものがあった。

津軽海峡 ・楽しい一週間の結婚生活・
彼女は南郡藤崎町の士族、医師楽天堂藤田奚疑氏の長女として生まれた。『天を楽しんでなんぞ疑わんや』と陶淵明の詩からその雅号を引用したほど、彼女の父は津軽武士の典型であり、豪放磊落な人間であった。そして維新の苦難を敢然と切り抜けた士族らしく、非常に進歩的であったことは、長女の敏子さんを早くよりクリスチャンとして洗礼を受けさせたことにも分かる。
明治二十九年彼女は函館遺愛女学校を卒業した。その後、二年間、宣教師の子供たちの家庭教師として函館に踏み止まった。万事に控え目で、痒いところにも手の届く敏子さんは、子供たちをはじめ周囲の人達に親しまれた。『敏子さんはほんとうにいい人だね。いつまでも居てくれればどんなにいいか分からないけれどーーー』と、周囲の者は言ひ言ひした。『奚疑先生の娘が女学校を卒業してから家庭見習いに函館にいるようだぞ。その娘ならいいお嫁さんになるだろうな』、『おとなしくて、気立てが良くて、おまけに教育がある。あんな娘を嫁に貰う当人はもちろん、親達の仕合せが思いやられる』
そんな噂が、故郷にも高まっていた。藤崎の楽天堂へは、菓子折を携えて月下氷人の役を買って出る人達も多かった。その度に父の奚疑は、あははははと笑い流して来訪の客を追い払った。が、そのなかに同じ津軽藩山田浩蔵の息長政の名を認めると、藤田奚疑は一つ返事で承諾した。山田良政、時に三十一才、東亜同文会の施設に係はる南京同文書院の教授兼幹事をつとめていた。故郷を遠く離れていたが、風の便りにその活躍ぶりは藤崎へも伝えられていた。
幼少より頭脳明敏、覇気に富み、山田の兄さんなら将来どえらい者になるだろうと郷当の評判だった。『これからの日本は支那へも伸びねばなるまい。娘は山田家にやろう。日清戦争を起こしたのは不幸じゃったが、これからは日本と支那が握手するのだ。わしも娘を訪ねて支那へ渡る時もあるだろう』と楽天堂は乗り気になった。すぐさま、函館にいる娘を手許に呼び寄せた。
明治三十一年、当時二十三才の藤田敏子は、新しい生涯への希望に胸を躍らせながら津軽海峡を渡った。縁談はトントン拍子に進んだ。ひとまず家風に合わせねばという双方の心遣いから、弘前市蔵主町に在った山田家へ娘分として入った。そして朝に夕に養父母にまめまめしく仕え、まだ見ぬ夫たる人の帰国を待っていた。
待つ身の辛さというが、まして若い身には一年の歳月は永かった。やがてその翌くる年の七月に夫山田良政は帰ってきた。青春の熱血に燃えるこの若き志士のところへは、ひっきりなしに友人知己が訪れた。敏子さんが良政氏の居間へお茶を運んでゆくと、彼女の夫たるべき人は腕を撫し、熱のこもった語調で『明日の亜細亜』について語っていた。『亜細亜のための亜細亜をつくれ』、『大アジアの共存共栄は、支那民族を自覚させるぞ』、『毛唐共に呑まれてたまるものか?』、『中国人民自由奮闘』、『孫文』、『革命』、これら片言隻句は敏子さんの耳朶を打った。
女学校を卒えたとはいえ、そうしたむずかしいことは男の領分と信じている彼女には、友人知己たちに烈々と説き来り来る良政の理論を理解できなかったが、その真情には胸を衝たれた。剛胆な人だと思った。大事を爲す人、信頼できる方だと思った。敏子さんは、山田家に来た幸福をしみじみと感謝するのであった。やがて二人の結婚式は挙げられた。新郎は、花嫁は二十四才—夢のように過ぎた一週間、東亜の風雲は、楽しかるべき二人の結婚生活のうえに怪しく去来した。

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