2019年3月19日火曜日

藤田(山田)とし 2

結婚当時の山田良政とトシ

片山なりさん 子沢山で大変だったろう。美人である。

 藤田奚疑の唯一の長男、知足は明治20528日生まれで、大正7105日に外務省書記生試験に合格し、スラバヤや広東などの領事館に勤務したが、昭和14年、病を得て東京にて52歳で亡くなった。父、奚疑は明治176月に佐藤勝三郎とともに弘前メソジスト教会にて受洗した。当初、藤崎にて開業していたが、その後、東津軽郡東田澤村(現:平内町)に転じ、開業し、夫人に先立たれてからは、医業をやめ、大正2年から三女、みほが嫁いだ對馬衞任方、弘前市下白銀町23番地に寄寓した。大正12年に77 歳で亡くなった。

 藤田としは、大正2年からは函館から弘前に戻り、弘前市蔵主町12番地の山田浩蔵宅に住んでいたが、大正7年の除籍後は、父、奚疑と一緒に妹みほのところにいたかは不明である。一方、としの一歳違いの妹、なりは、片山清吉と結婚し、四男六女の子沢山となる。清吉は船舶用機関学の専門家で、多数の専門書を著わす。函館から大阪に住まいを移し、そこで暮らすことになる。子供の一人、次女の静子は、ピアニストとして活躍し、大阪音楽大学出身のチェリストの永井直と結婚する。静子は関西でもトップクラスのピアニストで、のちに大阪音楽大学の教授となって、多くの弟子を育てる。家事とピアニストとの両立が難しく、その手伝いとして昭和5年(1930)に青森から藤田としが大阪に来た。後に大阪音楽大学学長となる永井譲は祖母の片山なりと藤田としによって育てられた。

 小説家、文化庁長官であった今日出海の本に次のような記述がある。今日出海が神戸にいたのは明治44(1911)から大正7年(1917)であるので、藤田としも昭和5年に大阪に住むようになる前も何度か、妹に会いに、大阪に来ていたことがわかる。


孫逸仙を見た  「隻眼法楽帖」中央公論社 昭和56

 母の子供時代の学校友だちで、片山おなりさんという人があった。明治2年生まれの母の子供時代にはまだ小学校はなかったから、寺子屋やみたいなものだっただろうか。それとも、母は家出してアメリカ人(若い女性二人)が函館で日本の女子教育をしようと、親の遺産を持ち、はるばる日本に来て女学校を経営するという噂を伝え聞いて、雪の夜、橇に乗り、青森から舟で海峡を渡る冒険を冒して遺愛女学校へ入学したのだ。その時の少ない同級生かも知れない。
 この片山のおばさんは結婚して大阪に住んでいたから、時々神戸の私の家に遊びに来て、時には泊まって昔話をして行くことがあった。男みたいにさばさばして、元気のいいひとだった。また極く稀におなりさんの妹という人も来て一緒に泊まって行ったことがあった。
 この人を山田先生と家では呼んでいた。姉さんとは異なり、山田先生はひどく若く、美しく、口数は少ないが、優しく、いつもにこにこし、私は大好きだった。何故山田先生というのか、これは函館で、遺愛女学校の付属幼稚園だったと思うが、そこの先生をしていたし、兄(今東光)がその幼稚園に通い、山田先生が担任の先生だったからだ。
 山田先生は一度お嫁に行ったことがあるのだが、それは津軽藩士で山田良政というひとだ。この人は血の気の多い青年だったらしく、既にシナに行っていたことがあり、将来はシナで暮らすという話しだった。それを承知で、結婚したのだから、山田先生は優しい人とのみ思っていたのに、内心はなかなか情熱を秘めていた当時にしては珍しい女性だったと思われる。
 略
 半年間ながら山田先生は正式の妻として夫にかしずき、その後は幼稚園の先生をして生涯を終えた。早熟な兄の東光は自分の初恋は幼稚園の時だったとよく書いているが、このはかない子供の心に美しい山田先生のことが焼き付いていたと思う。母も山田先生のことを立派な人として、妹のように可愛がったいたから、その人の夫だった山田良政の師匠孫逸仙に路上で拝むようにお辞儀をしたのも、いろいろ感慨があってのことだったろう。

*今日出海さんの上記文章では”片山おなり”は”山田先生”の姉としているが、”片山なり”は藤田奚疑の次女(明治10年9月生まれ)、”山田先生”こと藤田としは長女(明治9年4月生まれ)で、記憶違いである。藤田としは子供がいなかったので、若く見られ、妹に間違えられたのかもしれない。

 としは、片山家の多くの子どもたちから、大叔母として大変慕われ、昭和36年(1961)に片山なりの三女の京都での宅で85歳の生涯を終えた。幸せな晩年だったと言えよう。夫、山田良政との関係から孫文との面識を持つようになり、また今東光の母との関係から、彼と彼の弟の本に名前が出てくるという、何だか不可思議な人生である。わずか1週間の良政との結婚生活であったため、嫁ぎ先の山田家でも良政の死がほぼ確定した頃からとしに再婚を勧めただろう。それでも頑なにそれを拒み、義理の父母に最後まで孝行を尽くした、本当に心の強い、優しい人だったのだろう。そのため、山田の家を離れても山田家からは感謝され、そして同じように藤田家の兄弟からも愛された。

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