2019年3月2日土曜日

菱川やす4

菱川やす、10歳、Courtesy of InterserveUSA-it's the organization that emerged from a merger between WUMS and BMMF (Bible Medical and Missionary Fellowship).

左端の女性が菱川やすと思われる、1879年(横浜共立学院より)

写真1の拡大

写真2の拡大 左右反転


 菱川やすの写真が見つかった。岡見京と同じ頃に、共立女学校からアメリカのシカゴ女子医科大学に留学して医師となった菱川やすについてはこのブログでも何度か取り上げた。他の女医、岡見京、須藤かく、阿部はなの写真は見つかったが、菱川やすの写真については、かなり探したが見つからなかった。ところが最近、“Hishikawa Yasu”で検索すると、ディスカバー・ニッケイというH Pで”Atypical Japanese  Women-The first Japanese female medical doctor and nurses in Chicago-part 1”という論文が見つかり
http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/12/6/atypical-japanese-women-1/)
そこに“Yasu Hishikawain Yokohama. Courtesy of the records of the Women’s Union Missionary Society as archived at the Billy Graham Center”と説明が入った椅子の座った少女の写真があった。椅子が高いせいか、右足の草履は下に落ちてしまったが、それもへっちゃらで、前方へ強い視線を向けている。気の強そうな顔をしている。菱川やすは明治5年、横浜共立女学校が開校した最初の学生で、生まれは1861年頃で、写真は入学した当時、10歳頃のものと思われる。丸い机には洋風のカバンと洋書が置かれており、明治5年頃の写真としては写りが良い。丸い机を覆う布のデザインから一致する写真館を探しているが、まだわからない。

 この少女の視線は、どこか引っかかる。記憶を探ると、以前、横浜共立学園から送ってもらった1879年頃の学校前で撮られた写真を思い出した。九人の生徒と二人の先生が写っており、渡辺かね、木脇その、吉田まち、二宮わかが同定されているが、他の五人の生徒はわからない。以前、右端の少女を阿部はなと考えたが、その後、須藤かくと阿部はなの写真が発見され、違うことがわかった。今回、注目すべきは左端の女性である。10歳頃の菱川の写真と比べると、目元が似ており、顔の輪郭、鼻、唇の形も非常に似ている。18歳頃の写真にしては老けているが、右に写る二宮わかも18歳だから、昔はこんなものなのだろう。意思の強そうな顔は10歳の時から変わらない。まず間違いなくこの写真の右端の女性が菱川やすと見てよいと思う。

 菱川は名古屋出身で、父親は政府の官僚をしていたようで、横浜共立女学校の最初の生徒であったということは、父親も開明的な人物であり、さらに写真館で子供一人での写真を撮るのは、家が裕福だったと思われる。菱川という姓は全国的にはそれほど多くないが、名古屋に多い。さらに名古屋でも一宮市では690人おり、集中している。この辺りに菱川やすの親類がいそうであり、日本紳士録や人名録などを調べているが、該当する人物はいない。受洗しているので横浜の海岸教会の受洗簿に父親の名があるかもしれないが未調査である。

 “Atypical Japanese Women----“の著者であるTakako Dayさんとは連絡がつき、メールをして写真掲載の許可を取ったところ、オリジナルの写真を所有するところに連絡してブログ掲載への許可を取ってくださいと言われた。おかしな英語を使ってそこに掲載許可のメールを出し、ようやく今日許可が取れた。写真自体はTakako Dayさんの論文から引用している。明治初期、五年頃のものであれば、非常に早い時期の写真であり、写真史においても少女の優れた写真だと思う。画風は内田九一に近く、横浜で写真を撮っていたライムント・フォン・シュティルフリートあるいはその弟子で、須藤かくとも親しい日下部金兵衞かもしれない。

どなたか幕末、明治の写真に詳しい方のコメント待っています。

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