2008年7月27日日曜日
山田兄弟13
7月26日に弘前駅前市民ホールで行われた「孫文・山田兄弟と東亜同文書院大学の資料展示会」の講演と27日に行われた展示会を見てきました。当日ちょうど青森県のインターアクト大会が星と森のロマントピア(相馬)で行われていたのですが、5時までさぼり、講演終了後そのまま会場に直行しました、そこで宿泊した後、次の日もまた展示会を見に行きました。
国の支援のもと2年ほど前から全国的に愛知大学の資料展示と講演会が企画され、昨年度は東京と横浜、今年度は山田兄弟の生まれた弘前でということで開催されました。市民ホールは歯科医師会でもよく使うところですが、一日目と二日目で配置を変え、かなり費用がかかったのではと思います。講演は愛知大学の藤田佳久教授、馬場毅教授、作家のいずめ凉氏、武井義和先生の4方の先生の講演が1時から5時まで行われました。最後の講演は途中で抜けましたが、大変興味あるお話でした。また山田兄弟資料の展示も、うまくレイアウトされていました。
愛知大学の先生方には大変、ご苦労さまでした。豊橋、東京から多くの関係者が弘前に来られ、本当に感謝いたします。一方、この講演、展示会には後援として弘前教育委員会や弘前市の名前が見えますが、果たしてどれだけ積極的に後援したかとなると、はなはだ疑問で、関係者の姿もそれほど見かけませんでした。本来、こういった企画は山田兄弟の生誕地である弘前市が音頭をとり、愛知大学の協力を得るのがスジと思われますが、何か名前のみ後援しているようでくやしい思いもしました。市の広報などにもそれほど大きく、取り上げられず、講演会の参加者の入りも7割程度だったと思います。
山田兄弟の多くの資料は純三郎の子息順造さんの遺志から愛知大学にすべて寄贈されたようです。順造さんは生前、山田兄弟の資料館と本の出版を熱望していましたが、志半ば死去され、その後相談の上、愛知大学に寄贈されることになったようです。同門書院記念報という小冊子が会場に売っていましたので、それを見ると実に多彩なコレクションです。愛知大学に寄贈されてよかったと思います。本当にきちんと管理され、研究もなされているようです。これも本来なら故郷の弘前でということも考えられるのですが、当然資料館など弘前市で作る意思もなかったでしょうし、仮に市に寄贈されてもそこらの倉庫にしまわれぱなしになる危険もあります。かって笹森儀助の洋服が青森商業高校で打ち捨てられ、脚光を浴びるようになると展示されたという例もありますから。
今回の講演会では愛知大学(東亜同門書院)のOB会である霞山会の顧問の方とお話ができ、また愛知大学の先生方と名刺交換できたことが収穫でした。弘前では山田兄弟の資料館や生誕の碑などあるかと聞かれ、貞昌寺に山田良政、純三郎の碑があるとは答えたものの、これらは弘前の有志が作ったものではなく、あくまで中華民国が建てたもので、弘前市として何か顕彰するようなものはひとつもないというのが実情です。東京のひとや愛知のひとから見れば全くお恥ずかしい話です。ただ純三郎没後50年など、何か弘前で企画する場合は愛知大学、霞山会としても協力を惜しまないというお言葉をいただき、うれしく思いました。
まだまだ資料がたくさんあるようです。是非とももう少し大掛かりな展示会を開いてほしいと思います。何しろこれらの資料は日本人からすれば孫文以外そうたいしたことないと思われるかもしれませんが、中国、台湾では国宝級のもので、上の山田純三郎から孫文への手紙は北京にある宋慶齢記念館に大切に展示されているくらいですから。歴史教育の差というのか、中国革命のキラ星の人々、ちょうど明治維新の西郷や木戸、大久保といった人たち、と山田兄弟は強い関係を持ち、その資料はそれだけ貴重なものなのでしょう。それ故、このような展示会が台北や北京で開催されることが、日中、日台友好にもきっと役立つものと信じます。
上の左の写真は1922年11月8日に今の広州市に住む山田純三郎から上海の孫文に宛てた手紙で、内容は中国語なのでよくわかりませんが、前に山田が病気した時に孫文がお見舞いに来てくれたことの感謝などを述べています。先生釣啓とした書き方や、山田緘とした末字などはおもしろい書き方と思います。緘とは手紙の封印の×の時によく使う字ですが、手紙の名前の最後にもこのように使うのは初めて知りました。中国式の正式な書き方かもしれません。
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