2008年7月16日水曜日
山田兄弟12
近衛文磨首相の長男で、プリンストン大学に行きながら、帰国後は二等兵として招聘され、ソビエトで抑留中に死亡した近衛文隆の生涯と近衛家の足跡を描いた「近衛家の太平洋戦争」(近衛忠大著)を読んだ。著者の近衛忠大氏は近衛文磨の孫としてうまれ、父文隆と祖父文磨の戦争の混乱に巻き込まれた足跡を丹念に、追っている。
以前NHKでも放送され、記憶に新しい。この本の中で、山田純三郎の日中和平工作のことが少し載っているので紹介したい。アメリカから帰国した文隆は祖父篤麿の設立した東亜同文書院の学生主事として勤務する。その頃、泥沼化する日中戦争を終結すべき、前に登場した陸軍武官の小野寺信中佐の小野寺機関の協力者として和平運動、日中両国の首脳、近衛文麿と蒋介石の直接会談を起こそうと計画する。「バルト海のほとりにて」(小野寺百合子著)の中でも小野寺機関の協力者の一人として近衛文隆の名前が見える。その他のメンバーとしてはモスクワ大学卒業で共産党転校者などの名前も見られるが、このメンバーでは和平工作は無理かと思った。直接、蒋介石と強いルートがないからである。きっと山田純三郎も一員に入っているに違いないと思い、この本を読んだが一行も出てこない。一方、「近衛家の太平洋戦争」に中には汪兆銘政権の樹立を目指した陸軍により文隆や小野寺の和平工作は失敗するが、このくだりについて、「文隆が「萩外荘に軟禁」された背景にあった圧力について、元建国大学教授の中山優氏の文章がヒントになる 「惜しいことをした。文隆さんと私が組んで、重慶との間に何か交渉の道を開こうと思っていたのに、上海の軍部の圧迫で東京におし戻された」と、山田純三郎翁が先日病床の私に語ったことである」」
純三郎は、東亜同文書院の関連から文隆の計画に協力したのか、それとも同郷の一戸大将の孫に当たる百合子の夫である小野寺中佐に、その縁故で和平活動に協力したのか、はっきりしない。少なくとも最後の日中和平工作に純三郎が絡んでいるのはまちがいない。木戸幸一日記にも全くこの機にじゃまなことをするといった記載があり、結局は陰佐大佐ら陸軍軍部の圧力に負けてしまう。少なくとも、天皇側近に珍田や牧野らの常識派がいなかったことが残念である。何度も日中の平和を願いながらも、どうしようもない純三郎の気持ちはやるせない。国民党政府幹部をほとんどを知り尽くしている純三郎を政府として活用しようとしないばかりか、監視をつけて行動を見張っていたようで、このあたりも学者、官僚、軍部を重用し、民間人をばかにする日本人の悪い癖である。他方、戦争時のアメリカは実の民間人をうまく活用して戦争を有利に導いた。
近衛文隆は、結局11年間の抑留されたあげく、モスクワ郊外の収容所で病死する。私の父もかってソ連国境の黒龍江沿いで測量部隊の中尉として勤務し、終戦後はモスクワ南部の捕虜収容所に入った。当時は歯科軍医は東京高等歯科医学校の卒業者のみで、私立を出た歯科医はすべて一般兵として招集された。父も繰り上げ卒業して、学徒として中野学校や士官学校で教育を受け、満州に行った。戦局の悪化に伴い、多くの戦友は南方戦線にかり出されたが、長男ということで中国に残った。ただソビエトの捕虜生活も満更ではなく、歯科医という特技を生かし、麻酔なしで抜歯をたくさんしたお陰で、戦後抜歯には自信がついたと言っていたし、余分に食料も与えられたようだ。幸い、2,3年の抑留後、健康な体で帰国できたが、シベリアなどの抑留組は悲惨だったようだ。モスクワ南方の収容所はドイツやイタリア兵もたくさんいたようで、対応も違っていたのかもしれない。黒海方面まで脱獄した強者をいたようだ。
写真は良政、純三郎が学んだ東亜同文書院の創立者の近衛篤麿である。
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