2008年7月11日金曜日

山田兄弟11




東京のTさんからお借りした興亜先覚山田良政先生恵州起義殉難100周年記念出版「日中提携してアジアを興す 第1集 孫文革命の成敗と日本」(志学会 2000)に、文化庁初代長官で小説家、今日出海の文がのっていたので一部引用する。

孫逸仙を見た  「隻眼法楽帖」中央公論社 昭和56年

 母の子供時代の学校友だちで、片山おなりさんという人があった。明治2年生まれの母の子供時代にはまだ小学校はなかったから、寺子屋やみたいなものだっただろうか。それとも、母は家出してアメリカ人(若い女性二人)が函館で日本の女子教育をしようと、親の遺産を持ち、はるばる日本に来て女学校を経営するという噂を伝え聞いて、雪の夜、橇に乗り、青森から舟で海峡を渡る冒険を冒して遺愛女学校へ入学したのだ。その時の少ない同級生かも知れない。
 この片山のおばさんは結婚して大阪に住んでいたから、時々神戸の私の家に遊びに来て、時には泊まって昔話をして行くことがあった。男みたいにさばさばして、元気のいいひとだった。また極く稀におなりさんの妹という人も来て一緒に泊まって行ったことがあった。
 この人を山田先生と家では呼んでいた。姉さんとは異なり、山田先生はひどく若く、美しく、口数は少ないが、優しく、いつもにこにこし、私は大好きだった。何故山田先生というのか、これは函館で、遺愛女学校の付属幼稚園だったと思うが、そこの先生をしていたし、兄(今東光)がその幼稚園に通い、山田先生が担任の先生だったからだ。
 山田先生は一度お嫁に行ったことがあるのだが、それは津軽藩士で山田良政というひとだ。この人は血の気の多い青年だったらしく、既にシナに行っていたことがあり、将来はシナで暮らすという話しだった。それを承知で、結婚したのだから、山田先生は優しい人のみ思っていたのに、内心はなかなか情熱を秘めていた当時にしては珍しい女性だったと思われる。
 略
 半年間ながら山田先生は正式の妻として夫にかしずき、その後は幼稚園の先生をして生涯を終えた。早熟な兄の東光は自分の初恋は幼稚園の時だったとよく書いているが、このはかない子供の心に美しい山田先生のことが焼き付いていたと思う。母も山田先生のことを立派な人として、妹もように可愛がったいたから、その人の夫だった山田良政の師匠孫逸仙に路上で拝むようにお辞儀をしたのも、いろいろ感慨があってのことだったろう。


今日出海が小学校に入る前のころ、自宅近くの中華会館で孫文を一瞬みた思い出をここで語っている。ここに登場する山田先生とは山田兄弟7で紹介した山田とし子(敏子)のことである。とし子は藤崎教会の初期の賛同者で医者の藤田奚疑の三人姉妹の長女であり、片山おなりさんは妹か、あるいは親類であったのであろう。今日出海の勘違いであろう。明治31年に入籍したが、良政の生死もわからぬまま、弘前女学校に3年ほど勤め、明治37,8年に函館の遺愛女学院に転じた。今東光は明治31年生まれであるから小学校に入る前に赴任してきたとし子に会い、初恋をしたのであろう。とし子は明治9年生まれであるから28,9歳であった。
今日出海は1903年(明治36年)生まれであることから、孫文が清国政府の横やりからわずか2週間のみ日本滞在が許された1910年の出来事であろう。その後中国に行き、1911年に辛亥革命が始まった。

今家に出入りしていたころは、とし子は32,3歳で、日出海がいうほど若いとは思わないが、職場では子供たちに囲まれそれなりに幸せな生涯であったのであろう。

とし子は明治20年、わずか11歳で父の教育方針で函館の遺愛女学校にやられるが、今東光、日出海の母綾は明治元年生まれで、遺愛女学校が創立された明治15年から18年ころの早い時期に弘前から函館に行き、学んだのであろう。本多庸一のキリスト教への熱情が弘前で広がっていたことがわかる。

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