2010年2月28日日曜日

山田兄弟25




 前回、南京のオークションに出品された孫文から山田純三郎への書を紹介した。今回は山田純三郎から海濱に送った写真が上海のオークションに出品されているのを見つけた。かなり大きな画像が載っているので参考にされたい。(http://www.hosane.com/productdetail.asp?auctionid=S09122&pieceCode=3180&Page=1&LANG=jpn)
 海濱とは、中国革命の早期から参加していた革命家で国民党の要人、鄒 魯(すう ろ)の号で、純三郎77歳、1952年(昭和27年)の時の写真である。晩年の純三郎の姿が偲ばれ、興味深い。さすがに中国生活が長かったのか、長い髭をたらした、その姿は深い洞察力を持つ中国の大人の風格がある。オークションの落札価格は、中国元で2688元(35000円)、それほど高額でなく、知っていれば落札して愛知大学に寄付したのにと残念に思う。

 日本が敗戦すると、中国にいた日本人は期限内に日本へ強制的に帰国される命令がでて、上海にいた日本人も一定の居住区に集められ、つぎつぎに帰国していった。純三郎も日僑自治会(会長土田公使)の委員に選ばれ、帰国邦人の持ち帰り品の増加交渉などを行った。ただ一部の技術職、医者などおよそ2500人の日本人はそのまま徴用され、山田純三郎も1946年8月に、「残留日僑互助会」の会長に就任して日本人の世話や残留邦人の子弟たちに教育に尽くした。また江湾戦犯拘留所にいた福田良三中将や磯廉介中将などの戦犯容疑者の擁護に尽力した。純三郎は政府要人との関係が深いため、特別通行許可書をもち、自由に活動できたという。すべての在留邦人の帰国を見送った後、1948年12月に帰国し、その後は東京杉並区西高井戸、練馬区関町の自宅で過ごした。

 なお山田純三郎が1936年から社長をしていた日本語雑誌「上海」、「上海週報」の1913年から1922年までのデジタルアーカイブが神戸大学附属図書館から公開されている(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/shanghai/intro.html)。解題には、山田儀四郎が経営代表となっているが、おそらく純三郎の間違いか、変名であろう。1944年12月に雑誌「上海」を雑誌「大陸」と合併して、その顧問となるとの記載が、同文書院記念報にあり、その頃から休刊の方向になったのであろう。

 来年2011年は辛亥革命100周年の節目の年であり、中国、台湾でもかなり大掛かりな式典が予定されている。陳其美記念館が故郷の湖州市に昨年開設されたように、孫文周囲の革命家への評価も次第に高まっており、「山田良政、純三郎」で検索するとヒットする数も増えている。ただ中国本土には孫文関係の資料は割合少なく、逆に日本に多く存在する。弘前にも孫文の書が、2、3本あるようで、存外中国政府が100周年のため、探しにくるかもしれない。純三郎の手紙にも「清藤唯七君 珍蔵 孫中山先生遺墨」との記載があり、この清藤唯七君とは明治27年、南津軽郡尾上町生まれ(現平川市)の政治家のことである。弘前市会議員、県会議員などを経て衆議院議員となったが、昭和27年7月に死去した。また孫文とも親交の厚かった菊池九郎の長男菊池良一のところにも孫文の遺墨はあるであろう。

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