2011年1月16日日曜日

弘前藩明治国絵図




 これまで、このブログでは主として明治2年弘前地図について説明してきたが、実は友人からもらった地図はもう一枚あり、これは弘前藩領地を描いた絵図で、自分でもあまり興味がないので、そのままにしておいた。ところが「江戸幕府の日本地図 国絵図・城絵図・日本図」(川村博忠 吉川弘文館 2010)を読み、日本では国絵図の文化があることを知り、この弘前藩領の地図は手書きの最後の国絵図と考えられ、少しブログでも取り扱いたいと思う。

 江戸幕府では、その中央集権の証として、全国諸藩に対して、国絵図を作ることを命じた。一番最初は、慶長国絵図、これは主として西日本が中心で、陸奥国(津軽)の絵図はない。その後、寛永、正保(1644)、元禄(1697)、天保(1836)に国絵図が作られ、様式、規格も次第に決められ、縮尺も六寸一里(2万1600分の一)に統一され、隣藩との境界もそれぞれの藩で相談して策定された。かなり手間のかかる事業であり、何度か幕府の役人から手直しされた上、絵師によって清書され、正副2通が提出させられた。かなり経費もかかった。

 弘前藩でも正保国絵図の控えが青森県立郷土館に、また2008年には弘前大学附属図書館で元禄国絵図の写しが発見された。いずれもたいへん貴重なもので、また3m×4mくらいの大型の地図である。また天保国絵図は国立公文書館に保管され、陸奥国(津軽藩)の国絵図についてもインターネット上でも見ることができる
(http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0202000000)。

 そして明治になってからも、新政府は全国の地図を必要としたため、明治元年に全国の府県、諸候に太政官布告をもって管轄地の地図作成を命じた。縮尺は携帯性も考慮され、江戸国絵図の半分の三寸一里(4万3200分の一)とされた。また作成の参考として天保国絵図の半分の縮図を交付された。ただ明治維新の混乱によりなかなか作成されず、明治3年にもう一度民部省から催促され、ようやく明治4年末には全国73カ国の国絵図が揃った。「江戸幕府の日本地図」ではこれを明治国絵図と呼んでいる。ただ残念なことにこれらの明治国絵図は明治6年の皇城の火災により多くを焼失し、現在、伊賀、伊勢、美濃、上野、越前、越後、播磨、土佐、豊後、肥前、蝦夷の12枚(伊賀は2枚)が内閣文庫に残されているだけである。弘前藩領の絵図はすでに焼失している。

 私のところにある津軽藩領の地図(明治弘前藩国絵図)は、計測すると大きさが195cm×164cmであった。天保国絵図は440cm×371cmで、民部省の通達に従うと、大きさはこの半分の220cm×186cmとなり、これに比べると幾分小さいことになる。また弘前大学にある元禄国絵図の写しは、396cm×338cmで、この半分とすれば198cm×169cmで、ほぼ一致する。しかしながら、正式な国絵図は様式、規格も決まっており、例えば城は□の形の中に弘前と描くようになっているが、この地図では○に弘前と描いており、規格に合致しない。また使われている絵具もそれほど上質のものではない。一方、それまでの元禄、天保の国絵図に比べると書き込みが詳細で、弘前周囲の細かい集落の名前まで記載されている。また日本海および青森湾の海岸部は、小さな島や岩の名前まで書き込まれており、こういった記載は国絵図には必ずしも必要でない。船による輸送路といった場合の目印として必要なもので、実用性の高い記載となっている。さらに地図の精度を見ると、元禄、天保絵図に比べてよほど現在の地図と近似しており、十三湖の大きさ(元禄、天保は実際よりかなり大きい)や鯵ヶ沢など日本海岸の形も正確であり、伊能忠敬の実測日本図に近い。実測日本図は秘蔵され、慶應3年(1868)に公開されたが、この明治弘前藩国絵図作成に際して参考にしたのかもしれない。

 廃藩置県後にこういった地図が作られたとするのは無理があること、明治2年弘前地図とセットになって保管されていたことなどから、この弘前藩明治国絵図は明治元年から明治4年ころに作られた可能性が高い。諸藩が作った明治国絵図とは製作時期が一致しており、様式、規格は多少違うが、全く関係のないものではなかろう。ただ安直に作成しようとすれば、参考に交付された天保国絵図をなぞればいいが、そうせずに最新の正確な絵図を作成したようだ。単に政府から命じられただけでなく、何らかの他の理由があったのかもしれない。

 残されている12枚の明治国絵図と比較し、他の地図がどれだけ政府の規格、様式に忠実だったかを調べることで、この国絵図が政府に提出されたものの写し、下絵かどうかわかると思う。専門家による今後の調査を期待したい。

 明治中期以降になると、測量による近代的な地図ができ、こういった手書きの国絵図は全く姿を消す。そういった意味ではこの江戸時代の最後の国絵図は天保のものとされるが、明治国絵図を番外ではあるが、国絵図としては最後のものとしてもよかろう。

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