2011年6月21日火曜日

山田兄弟37



本日は、新寺町貞昌寺の山田兄弟の石碑の前で青森放送のロケを行った。北日本で放送される「ナツ得テレビ」のロケで、夏休みの岩手、秋田、青森のお勧めスポットを案内する番組である。その中で、弘前の観光名所として貞昌寺の山田兄弟の碑が取り上げられた。事前の打ち合わせも全くなく、いきなりアシスタントが碑の前で質問をし、それに答える方式であったが、用意していた原稿内容はほとんど頭から消え失せ、何をしゃべったか記憶にない。変なこと、間違いをしゃべってないか非常に気になる。編集して20秒くらいの出番だから、あっという間に終わるだろう。7月2日1時からの放送のようだが、ちょうど仕事中なので見ないことにする。

 山田良政は、明治33年9月(1900)の恵州蜂起にて処刑された。享年33歳であった。辛亥革命後の大正2年(1913年)に、孫文は準国賓として来日し、東京谷中(やなか)の全生庵に「山田良政之碑」を建設し、追悼した。この時、良政の両親、浩蔵ときせ、良政未亡人の敏子は上京して孫文と会見した。この際、敏子の通訳で浩蔵と孫文の会話がなされ、孫文は英語で「良政さんが中国革命のために、外国人として初の犠牲者となって下さったことを中国国民を代表してお礼申し上げます」と述べた。また浩蔵のためには「吾が父の若し」の書を送った。その後、大正5年には戴天仇(さい てんきゅう、戴季陶)が山田良政の父浩蔵の病気見舞いのためにわざわざ弘前に来た。さらに大正7年9月には、山田純三郎が良政の死んだ場所を訪れ、一塊の土を持ち帰り、山田家菩提寺の貞昌寺にて良政の葬儀が行われた。山田一族が会同し、廖 仲愷(りょう ちゅうがい、廖 承志の父 りょう しょうし)が孫文代理で出席し、それを見届けるように11月には父親の山田浩蔵は病死した。

こういった孫文の山田家に対する細やかな気配りは、日本から革命への支援を引き出すねらいもあったが、孫文、中国人の義理深さを感じさせる。同時に山田良政の死を本当に惜しんだと思われる。

さらに大正8年(1919年)10月に、幕僚の陳 中孚(ちん ちゅうふ)と宮崎滔天が代表として派遣され、弘前の山田家の菩提寺の貞昌寺に碑を建てた。題字の「山田良政先生之碑」は犬養毅(いぬかい つよし 昭和7年 5・15事件で暗殺された総理大臣)、撰文は孫文である。孫文自筆の山田良政先生墓碑は、現在、愛知大学東亜同文書院大学記念センターにあり、センターの資料のうちでも最も貴重なもののひとつである。この書と貞昌寺の碑を比べると、まず「山田良政先生」が「山田良政君」に変わっており、さらに書体もよくは似ているが、同じではない。そういうことでこの碑文自体は孫文が書いたが、字そのものは孫文のものではないと言ってもよかろう。ただ孫文自身が自ら追悼文、さらに墓碑まで書いているのは事実であり、この碑自体も孫文在命時のものであるから、孫文が作った碑ということは確実に言える。孫文のこれだけ長文の個人に対する碑は、中国においても少なく、貴重なものである。それにしても、これまで長い間大切に保存していただいた貞昌寺さんには感謝したい。


東京谷中での追悼式では、孫文は山田良政を悼む追悼を行っている。その原稿は残っているが、最後の文章は「更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを」となっている。

少なくとの、弟の純三郎は「中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神」を引き継いだ。辛亥革命100周年の年に改めて、この言葉の意味を考えたい。

PS: 「明治二年弘前絵図」は弘前土手町の紀伊国屋書店でも販売しています。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

紀伊國屋で売ってるんですか。買いに行きます。