2011年9月4日日曜日

旧岩田家住居




 今日は、台風に伴うフェーン現象で異常に暑かったが、若党町の旧岩田家住宅を訪問した。この旧岩田家住宅は、江戸時代の下級—中級の武士の住まいを現在に残した貴重なもので、江戸時代の若党町、小人町はこれと同じような家が続いていたと思われる。玄関から入ると小さな庭があり、家の裏には畑や柿、梅などの木が植えられていたのであろう。家は8畳の間が3つと6畳の物置、4畳の広間、8畳の台所と土間の計50畳、その他も合わせるとおおよそ30坪の茅葺き屋根の平屋である。

 当時の弘前藩の住宅の大きさは禄高で大体決まっており、200石で50坪、150石で40坪、100石で30坪、50石では25坪、50石以下では25坪以下となっていた。これはあくまで目安であり、建築時の当主の家禄によって変わってくる。岩田家住宅の場合は25坪であるので、100石から150石の家禄であったようだ。

 邸内にあった岩田家の家系図によれば5代、6代では300石の家禄であったが、8代あたりから家禄は不明で、明治2年当時の戸主の岩田平吉は御馬廻番頭格御祐筆、5両1人扶持、西洋砲術師範なっている。この役目の家禄がどの程度なのかは不明であるが、300石の家禄には届かなかったであろう。

 明治二年弘前絵図を見ると、岩田平吉の住まいは、現在の岩田家住宅より小人町寄りにあったようで、今の旧岩田家住宅は、近藤祐斉という人の住宅であった。近くには近藤栄三郎、近藤十之進という名前も見られ、親族であろう。あくまで地図上の間口での比較ではあるが、元々の岩田家よりは今の旧岩田家住宅の方が地所は広い。

 岩田平吉は、江川塾で砲術を学んだ秀才で、明治政府もその才能と知識を新政府で活用したかったのであろう。明治5年に海軍省造船局砲器科に務めた。明治初期の海軍については所有艦船も少なく、ここで平吉がどんな研究を行ったかは不明であるが、この時期に東京に行ったのは間違いない。明治4年士族引越之際地図においては転居印の△がついており、明治の早い時期に岩田家は小人町の家を引き払ったようである。明治5年当時、平吉は53歳で、その後いつまで海軍に務めたかはわからないが、明治20年代には弘前に戻り、明治28年に死去した。弘前に帰って来た折に、以前の家の近くの今の旧岩田家住宅を購入したのであろう。あるいは親類がここに住んでいた可能性もある。

 ちなみに旧岩田家住宅の案内の方と長らくお話させていただいたが、現在の岩田家当主によれば、岩田家の場所はずっとこの場所であったとのことであった。3、4代前となると記憶も曖昧になるが、旧岩田家住宅でいただいたパンフレットには、建物は200年前のものだが、岩田家が入居したのは明治時代と書かれており、明治二年弘前絵図からの所見と一致する。

 小人町の座頭町の前当たりに、岩川茂右衛門の名前が見られる。今東光研究家の矢野隆司さんの研究によれば、小説家の今東光の祖父今文之助の妻也佐は、岩川茂右衛門の姉だったようで、この小人町の岩川家は祖母の実家ということになる。今文之助は明治8年に、也佐は明治19年にコレラで亡くなっているため、今東光自身は祖父、祖母の思い出はない。

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