2012年1月2日月曜日

寺山、東海家




 こういったブログは、本や論文と違い、ある意味無責任なことも書けるので気が楽である。学術論文では、文責といって書いたことは著者の全責任となるため、論文などきちんと読んで、はっきりしたことしか書けないが、ブログであまり実証的でなくてもいいんじゃないかと考えている。ブログを読んで何らかのヒントになればと。

 最近、気になったことが2つある。ひとつは寺山修司のルーツである。弘前市の紺屋町生まれであり、その生誕地もこのブログで解明でき、ほぼ同定できたと思っている。寺山修司の父、八郎は秩父宮警護のため、弘前に派遣され、その宿舎である紺屋町で修司が生まれた。その場所は、昭和10年当時、隣に住んでいた川村先生の証言ではっきりしている(2009.6.27ブログ参考に)。寺山八郎は、東奥義塾を卒業後に警察官となり、太平洋戦争で戦死しているが、学生時代は弁論部やテニスで活躍する一方、評論なども書いたようで、ずいぶんインテリだったようだ。

 寺山家のルーツは梁塵日記というHPで以下のように書かれている、「 三沢・寺山記念館の今年の展示は寺山修司の父・八郎氏にスポットを当てたもの。大澤氏からその展示内容の一部をいただく。それによれば、寺山八郎の一族は鹿児島の島津家の流れをくむ鹿児島藩士だった。しかし、なぜか祖父の代には会津藩家老・西郷頼母とともに函館戦争で幕軍と して薩長と戦っている。さらに、西南戦争では今度は西郷側に。いずれも敗者だ。鹿児島藩士がなぜ会津藩についたのか、ナゾは多い。が、しかし、単なる薩長 の末裔ではなかったということがいかにも寺山らしい。函館戦争で土方歳三らと共に戦ったというのが事実なら、寺山家というのは根っからの反骨一族ではない か。そこから寺山修司が生まれたとしたら、あまりにもできすぎている。しかし……ロマンだな、これは。」

 寺山修司の父八郎は、古間木(三沢市)で寺山食堂をしていた寺山芳三郎の七男として生まれたが、まずどうして東奥義塾に進学したのであろうか。通常、旧南部藩と弘前藩は仲が悪く、三沢のひとが義塾に進学することは稀と思われる。仮に進学したとしても、相当いじめがひどかったと思われる。ましてや鹿児島藩士であればなおさらであろう。当時は弘前藩の本拠地、それもかっての藩校に南部藩や鹿児島藩の子弟が入学するのは困難であろう。さらに中学校に入学するには相当金がかかり、食堂をしていた家が、それも七男を進学させるのは不思議である。ひとつの推測としては、寺山家は弘前藩士であった可能性がある。実際、弘前藩の馬術指南に寺山家があり、明治二年絵図にも、確か2軒寺山姓の家がある。一軒は春日町の寺山忠八、もう一軒は小人町の寺山尚吉である。また松前藩史には馬術師範として弘前藩の寺山新四郎の名前が見える。親類が弘前いるため、息子の進学先を東奥義塾にしたと考えると辻褄が合う。今年1月15日から弘前市立郷土文学館で第36回企画展「寺山修司―生誕地弘前と父そして俳句―」があるので確認したい。

 もうひとつは陸羯南の新聞日本に参画した赤石定蔵の実家も気になる。赤石は東海家より赤石家に養子に行ったが、長男東海健蔵は弘前銀行の取締役、弟の勇蔵は日本海軍の造船少将勇蔵である。東海という姓は弘前でもそれほど多くなく、明治二年弘前絵図では一軒、東海吉兵衞という名が代官町に見られる。弘前城築城の際には縄張りを担当した譜代の重臣で、代々吉兵衞を名乗った。ここが実家であるか、もう少し調べていきたい。

0 件のコメント: