2012年2月29日水曜日

福沢諭吉と東奥義塾



 東奥義塾と慶応義塾の関係は、その名前だけでなく、先生、授業システムまで相似していることは、青森中央短期大学教授北原かな子さんの研究に詳しい。

 例えば、文久元年から明治4年にかけての慶応義塾への弘前からの留学者は27名に及ぶ。すべて名前を挙げると

木村滝弥(文久元年11月入学)、工藤浅次郎(文久2年5月)、吉崎豊作(元治2年1月)、神辰太郎(慶應元年5月)、佐藤弥六(慶応元年)、白戸雄司(慶應元年)、笹衞之助(慶応元年8月)、樋口左馬之介(慶應元年10月)、田中小源太(慶應3年7月)、三浦清俊(慶應3年7月)、飯野登助(明治元年9月)、成田五十穂(明治2年2月)、菊池九郎(明治2年8月)、武藤雄五郎(明治2年8月)、間宮求馬(明治2年8月)、寺井純司(明治2年8月)、出町大助(明治2年12月)、鎌田文治郎(明治2年12月)、須藤寛平(明治2年12月)、武田虎彦(明治2年12月)、青沼観之助(明治2年12月)、木村健太郎(明治4年5月)、須藤保次郎(明治4年5月)、竹森徳馬(明治4年5月)、小山田敬三(明治4年5月)、小野武衞(明治4年7月)、篠崎左一(明治4年7月)
(幕末平田塾と地方国学の展開:弘前国学を例に 中川和明:書物・出版と社会変容、7:69-96,2009)

 文久2年(1862)9月28日の弘前藩記事では、海軍を興さんが為に壮年の藩士8名を抜擢し、江戸に派遣して海軍術を学びしめるとある。このうち佐藤弥六(佐藤紅緑父)は船具軍用学、樋口左馬之助は蒸気機関学の習得を、まず目指し、その後慶應義塾に移ったのか。さらにそれ以外の者で江戸に留学した者として、蘭学に工藤浅次郎、兵学では田中兵源太、測量学では成田五十穂の名がみえる。さらに英学の習得と目指したものは福沢塾に入塾し、吉崎豊作、神辰太郎、佐藤弥六、白戸雄司、三浦才助、田中小源太、木村繁四郎の名が見える。

 ちなみに蒸気機関学を学ぶために江戸に派遣された人物として永野邦助(後に改名工藤菊之助)は、勝海舟の神戸海軍操練所に入学し、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨とは同級生である。本来、海軍の訓練所は江戸にも築地にあったので、この神戸海軍操練所のメンバーはほとんど土佐藩、薩摩藩など西日本の藩出身者が多く、東日本は長岡藩の1名のみである。ただ明治後、工藤菊之助の名前はほとんど歴史上には残っていない。一方、神戸海軍操練所の前にできた築地の軍艦操練所には弘前藩から石郷岡鼎と工藤勝弥(岩司)、さらには荒井安之助、吉崎源吾が入所した。

 三浦才助は三浦清俊と同一人物であろうか。そうすれば明治二年弘前絵図のデータベースから三浦忠太郎弟で、当時緑町に住んでいた。また木村繁四郎は函館戦争で活躍した藹吉(杢之助)ではなく、その子で後に横浜第一中学校校長であった繁四郎であろう。別名を健太郎といったのであろうか。

 東奥義塾の開学時のメンバーは、幹事が兼松成言、副幹事が菊池九郎、成田五十穂、一等教授が吉川泰次郎、鎌田文治郎、須藤寛平、寺井純司、須郷元雄であった。このうち、菊池九郎、成田五十穂、吉川泰次郎(和歌山、後に日本郵船社長)、鎌田文次郎、須藤寛平、寺井純司はすべて慶應義塾に学んだ。兼松成言は洋学の重鎮であり、須郷元雄はおそらく漢学の教授であろう。ほぼオール慶応義塾の陣営である。当然、東奥義塾の学校運営、教育方針は慶應義塾のそれとほぼ同じであったろう。

 ちなみに成田五十穂は、成田源三郎の三男で(弘前藩記事三 賞典調より)、データベース上では御徒町川端町にその家があった。また鎌田文治郎は若党町に、須藤寛平は須藤雄二の息子で代官町に、寺井純司は寺井雄平の二男で上瓦ケ町に、須郷元雄は須郷甚八郎の子で小人町に住んでいた。須郷元雄の息子瀧太郎は後にキリスト教に入信し、青山学院で学び、牧師となった。

 幕末から明治初期にかけては、優秀な人材は二男、三男であっても、藩は積極的に遊学させ、新しい知識の習得に務めた。当時、日本で最も先進的な学校は慶應義塾であり、さしずめ、今で言えば、優秀な高校生をハーバート大学やマサチューセッツ工科大学に市が負担して留学させるようなものかもしれない。

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