2013年8月27日火曜日

山田兄弟 43



 昨日の東奥日報に山田良政の親類の話が載っていた。千葉県柏市に住む岡井禮子さんが、祖母が「おばあさんのいとこに山田良政という人がいて、弟の純三郎と二人で中国の孫文さんを助けたそうだよ」と言っていたのをきっかけに、中国、深圳にある公園にある山田良政の像を見に中国に渡ったという記事である。

 東奥日報の外崎さんから岡井さんと山田家の関連について何度か問い合わせがあったが、結局、私の手持ち資料ではわからなかった。山田良政の従兄弟ということは、父親、山田浩蔵、母親、きせの兄弟の子供となる。きせは政治家の菊地九郎の姉となる。

 菊地九郎は、弘前藩の中級藩士の菊地新太郎と奈良荘司の次女、喜久子の長男として弘化四年(1847)に生まれた。三男二女がいて、九郎、8歳の時に父親の新太郎が急死し、その後は母一人で苦労して育った。となると父親の亡くなったのは1854年ころで、36歳の時であったというから、子供三男二女が生まれたのは22歳ころに結婚したとすれば、兄弟姉妹の生年月日は1844から1854年ころと推察される。

 記事によれば、岡井さんの祖母、中村満津さんの生まれは明治六年(1873)で、そのおばあさんということは二世代前で、ほぼ50年前とすれば、1823年生まれとなり、菊地九郎の兄弟とは年齢的には難しい。中村さんの母親ということであれば、菊地九郎の兄弟の可能性もあるが、祖母となると該当者はいない。

 一方、山田家について言えば、山田良政の父、山田浩蔵に兄弟がいたかはっきりしないが、山田浩蔵(1838-1918)の生年を考えると、ぎりぎり年長の姉がいた場合、該当することになる。1830年くらいの生まれで、20歳で子供、そしてその子がさらに23歳で中村満津さんを生めば、祖母となる。ところがその場合、満津さんからみれば山田良政ははとこであって、いとこではない。

 話が複雑であるが、結論から言えば、中村満津さん「旧姓小池」本人が山田良政のいとこであったのであろう。記事の「おばあちゃんのいとこにーーー」のおばあちゃんとは自分を指したことと思われる。

 となると、小池満津さんは、菊地九郎の姉妹、あるいは山田浩蔵の姉妹の子供で小池家に嫁いだひとと言えよう。ここから先の調査は、菊地家および山田家の家系図、あるいは寺の過去帳、弘前図書館の「士族代数調」で調べるしかない。ただ気になるのは、中村(小池)満津さんの母親は生まれたのは明治6年であるので、山田家、菊地家の娘が小池家に嫁いだのは、幕末、明治初期になるが、当時においても他藩のものと結婚するケースは珍しい。また弘前藩士には小池姓はない。ひとつ考えられるのは、会津藩に小池帯刀というひとがいて、この二男の小池洋二郎(1860?-)は、斗南藩士として東奥義塾に入学し、明治7年に植田町に開かれたカトリック宣教師アルブエの陶化学舎に学び、東京で文筆活動を行い、明治15年に「日本新聞歴史」を発刊した。菊地家との接点があるが、年齢があわない。もう一人、同じく会津藩士で、小池帯刀の養子となった小池周吾という人がいる。会津戦争で破れ、仙台で降伏する。わからないが小池洋二郎の兄になるのか。年齢的にはあいそうだが、弘前との接点がわからない。

 民主党の菅直人前首相が全生庵の山田良政の碑を訪れる件が中止になったいきさつについては、歴史家、評論家の松本健一氏のブログにくわしく書かれているので、一読を勧める。

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