2014年7月27日日曜日

矯正治療の目的

 この時期になると、学校歯科健診で『不正咬合』と指摘され、来院される患者さんがたくさん来ます。健診は5月ころに行われますが、忙しくて夏休みになって来院されます。

 最初に「どこが気になって来られましたか」と親御さんに聞きますが、「学校健診で指摘されたので」と言うので、もう一度「これまで歯並びで気になる点はありましたか」と聞くと、「特にありません」と答えます。こういった会話は「学校健診」を「健康診断」で置き換えると、他の医科あるいは歯科でも日常的によくあるものです。患者さんにはわからなくても、専門家により異常が発見され、精査が必要ということです。

 ただ不正咬合については、誰でも見ればわかるもので、専門家に指摘されて始めてわかるものではありません。かみ合わせが逆の反対咬合、でこぼこの叢生、出っ歯の上顎前突なども、親御さんがお子様の口を見ればすぐにわかるものです。全く気にはなっていないが、学校健診で指摘されたので、取りあえず来たということなのでしょう。当然、矯正治療、期間、費用などの説明をすると、ほとんどの人は治療をしません。

 矯正治療の一番大きな特徴は、治療しなくても全くかまわないということです。一番重篤な下顎前突、下あごが前に出てかみ合わせが逆の症例でも、食べにくいとは思いますが、それで食事に困るということはありません。よく教科書では矯正治療の目的の一つに、咀嚼障害、発音障害などを挙げられていますが、実際の患者さんの主訴で、こういった障害を持つひとは1%もいません。大抵の患者さんは不正咬合があっても咀嚼、発音には全く問題はありません。

 また矯正治療は緊急性がありません。骨格性の問題を有する患者さんはアゴのコントロールをするため、早期に治療した方がよいともいわれていますが、これとて1、2年治療が遅れたかといって手遅れということはありません。

 それ故、矯正治療では、患者さん、親御さんが不正咬合に気づき、治療したい、させたいということが前提となります。健診で指摘されても治療する気がなければ、それでいいですし、無理矢理治療を勧めるものではありません。当然、保険がききませんので高額な費用もかかりますし、また期間もかかります。こういったデメリットを十分承知の上、それによって得られるきれいな歯並びを希望される方が対象となります。この点通常の医療とは若干違う点です。

 ただ難しいのは親御さんが子供の治療を希望されていても、お子さんが拒否している場合です。お子さんが小さいうちは、親御さんの希望を優先して検査、治療に入る場合もありますが、小学校の高学年になると、患者さん自身の気持ちを優先するようにしています。患者さんが治療を希望しなければ、治療しません。いずれ患者さんが気になって治療を希望した時点から始めても治療は可能だからです。

 こういうことを言うと、矯正治療なんか必要でないんじゃないかと言われそうですが、先進国ではきれいな歯並び、笑顔を重要なチャームポイントとなります。多くの研究できれいな歯並びの人はそうでない人に比べて、魅力度がまし、プラス面の評価を受けます。人間社会が対人関係で成り立っているならば、人からプラスの評価を受けることは人生における様々な局面で得をします。欧米では業種にもよりますが、歯並びが悪いと就職できない仕事もありますし、矯正治療が当然の社会では、不正咬合の方がかえって目立つことになります。

 こういったこともあり、欧米では子供たちも矯正治療に対する抵抗感は少なく、成人儀礼のような形で、大人になる前に不正咬合は治療しておくというのが一般化しています。日本でもようやくそういった機運が出てきましたが、まだまだ一般化しているとはいえないと思います。アメリカ映画「ゼログラビティー」では、衛星の破片でシャトル内部も破壊されます。その空間にふわふわ浮いているのが、搭乗員のものでしょうか、保定装置です。宇宙でのミッションの最中もきちんと搭乗員は矯正治療後の後戻りを防ぐため保定装置を使っていたようです。

2014年7月26日土曜日

弘前藩の柔術と東奥義塾





 東奥義塾の柔道部の歴史は古い。少なくとも明治30年以前には柔道(術)部があったようで、『写真で見る東奥義塾120年』には明治31年の柔道部の写真が載っている。

 写真には山田兄弟の四男、山田四郎の凛々しい姿がある。さらに山田四郎の叔父、拓殖大学の名物教授、佐藤慎一郎の父、佐藤要一の姿もある。島川勉については『西津軽郡深浦町の人。素封家島川一寛の長男。早稲田大学卒業。在学中から柔道が強く、卒業後米国に渡り柔道の普及につとめる。帰国後昭和14年から同16年まで深浦町長をつとめた。英会話に堪能で、また料理も上手であった』とある。山田兄弟の次男、晴彦は島川千代と結婚するが、千代は島川勉の妹かもしれない。日本最高の格闘家、前田光世は明治12年生まれで、早稲田大学から米国に柔道普及に行ったが、島川も3歳後輩で、同じような経緯で渡米した。

 前田は明治27年に弘前中学に入学するが、2年生になると有志と共に弘前藩柔道師範であった斎藤茂兵衛に本覚克己流の柔術を学んだ。さらに明治28年6月には斎藤を柔道師範として弘前中学に柔道部が作った。日清戦争後では弘前では尚武奨励のムードが強く、剣術、柔術が盛んで、道場も多くあった。東奥義塾は藩校に流れをくむ学校であり、武芸への活動は盛んで、おそらく柔術部、あるいはそれに類した活動は、弘前中学校より早かったと思われる。稽古館では学問と武術は両立して教えられ、寛政年間の和術は師役、唐牛甚左衛門、添師役、添田弥兵衛、斎藤茂兵衛、木崎忠次となっている。東奥義塾の柔道部(柔術部)の記載が東奥義塾再興十年史に始めて登場するのが、明治408月で『本塾出身柔道教師山形張蘇、島川勉を招聘し柔道夏季講習会を開いた』の記載がある。写真の山形とは山形張蘇という人物であることがわかる。斎藤茂兵衛の道場については以前(片山町、2012.1.26)、述べたが、師役の唐牛甚左衛門については、明治二年弘前絵図では、今の弘前郵便局の隣、レンタカー会社のあるところに斎藤甚助の名がある。昔は弘前女学校があった。弘藩明治一統誌 人名録によれば、斎藤家は、弘前藩の柔術師範で、代々、本覚克己流の柔術を自宅で教えていたが、幕末には修武場にて教えたとある。敷地は広く、自宅にも道場があったのであろう。

 さら再興十年史の対馬の回顧録では「柔道は先輩前田英世氏によって土台は築かれしならんも前田亀千代君の如き在学当時已に他校試合の場合は審判の位置に就かれた程であったから県下中学校には歯の立つものは一校も無かった。それに明治40年の夏休から澤先生、新城先生を毎年講師として招き練習したから一層上達して多数の有段者を出しています」とある。ここでの前田亀千代とは『明治18年〜昭和39年(1885-1964)弘前の人。俳号冬川。明治41年東奥義塾卒。二高から京都大学法学部に進み、卒業後、大正8年京都で弁護士を開業。京都市弁護士会長をつとめた。なかでも近畿青森県人会京都支部長として郷土出身者のためにつくすことが多かった。スポーツを好み、俳句をよくした』とある。どういうわけか孫文に協力した日本人として名が挙がっている。

 前田光世の柔道は、ブラジルで進化をとげ、後年グレイシー柔術として日本に知られるようなった。前田の柔術は、立ち技主体の柔道では大柄な外国人格闘家とは戦えないので、前田が自分で講道館柔道を進化させたとする。すなわち初期の嘉納治五郎の講道館柔道は今の柔道とは違い、多くの柔術の技、寝技、関節技を多く取り入れられ、前田はこれらを改良して試合をした(柔道の普及と変容に関する研究—グレイシー柔術に着目して、谷釜尋徳、2012)。ただこの論文には前田の弘前での柔術修業(本覚克己流)については全く触れられていない。前田が早稲田大学入学当初の1年間で二段昇格という偉業は、講道館柔道を習う前から柔術の相当な技量があり、当時の講道館柔道家には歯が立たなかったことを意味する。前田の柔術は、すべて講道館柔道によるものではなく、本覚克己流柔術や日下真流などの古流柔術の基礎の上に講道館柔道があり、海外で試合を重ねるうちに、より実践的な柔術の使うようになった。

 東奥義塾では再興後、もっぱら剣道を重視し、柔道部の再興は後年になってからである。明治31年の柔道部の写真の中の市川宇門、小館俊雄らは、後年剣道で名をはせた。

 弘前の武術研究稽古会「修武堂」のメンバーによれば、昭和40年代後半まで、本覚克己流の柔術道場が現存したという(大津育亮師範、外科医)が、現在はその内容については全く不明となり、先の稽古会で復元が試みられている。前にも挙げた昭和初期の東奥義塾を写した映画で見られる剣道、柔道は一部、古武術であり、義塾では、日本剣道連盟、講道館の競技武道と併用して古流武術を教えていたのであろう。

2014年7月24日木曜日

吉町太郎一



 今朝の火野正平さんの『にっぽん縦断 こころ旅』を見ていますと、旭川の旭橋がでていました。戦争中の空襲にも耐え、今や旭川のシンボルとなっています。この橋の設計者が北海道大学の橋梁学の権威、吉町太一郎教授です。このブログでよく引用する、青森県人名大辞典によれば、

吉町太郎一(よしまち たろういち)
明治六年〜昭和三十六年(1973-1961)弘前市新寺町出身、藩士吉町官助の子。幼にして父に随い上京。苦学力行して第一高等学校から東京大学工学部に入学。金属学を専攻して、明治三十一年卒業。同時に同学部助教授になり、明治三十四年欧州へ留学。三十七年に帰朝して、名古屋高等工業学校教授、転じて九州大学工学部教授となった。大正十三年北海道大学に工学部設立のさい迎えられて同学部教授。ついで同学部長となり、昭和十一年退官して北海道大学名誉教授の称号をうけた。

 大学卒業後、すぐに助教授、そして欧州留学と、非常に優秀な学生だったのでしょう。吉町という名は弘前では珍しい名ですが、浪岡北畠家の家臣、四天王の一人に、吉町弥右衛門がいます。浪岡北畠家は弘前藩初代藩主の津軽為信による天正六年(1578)によって滅ぼされ、吉町弥右衛門もその後に討たれたました。『弘藩明治一統誌 勤仕録』によると、信牧の代に吉町左五右衛門が仕えたとあります。吉町家の誰かがこの時に士官したのでしょう。明治二年弘前絵図では新寺町の白狐寺門前に父親、吉町官助の名があります。ホーリスト教会で有名な中田久吉の家はすぐ近所です。弘前藩の藩士の禄はある程度、住む所で決まっていましたので、吉町家は下級士族であったのでしょう。維新後は、こういった下級士族が最も影響を受け、貧窮のうちに東京、北海道に移住することが多くありました。吉町太郎一も6歳の時に上京したといいますから、明治12年ごろだったのでしょう。苦学力行してとありますが、どの学校から一高に入ったかはわかりません。弘前からに一般的な流れとしては、弘前出身者の多い攻玉社に入学するケースが多く見られます。その可能性もあります。

 本日、診療所休みでしたので、暑い中、最勝院に行って益子家の墓を探しましたが、見つかりませんでした。昔の本に記載されている墓でも、実際に行くともうなくなっていたという経験はこれまでも何度もあります。お寺の方もお参りする人がいないと、ある程度整理するのでしょう。構内には木村藹吉の碑文がありましたが、これなどしぶいところです。

2014年7月21日月曜日

黒石美人 澤村春子



 黒石の益子家について、近代デジタルライブラリーを調べていると、東奥日報が出版した青森大観という本(大正15年)に澤村春子という女優のことが載っていた。最初、杉村春子のことかと思ったが、いかにも女優という名の本名である。サイレントトーキー時代に活躍した女優である。手持ちの『キネマの美女』(文藝春秋、1999)を見ると、明治34年、北海道礼文島生まれとなっているが、大正15年の東奥日報を見ると、両親とも黒石生まれの黒石美人である。1920年に松竹キネマ俳優学校、同研究所に学び、『路上の霊魂』でデビューとある。俳優研究所は小山内薫が主催したもので、青森出身ということも小山内に可愛がられた理由かもしれない。23年には日活向島に入社。『敗残の唄は悲し』(溝口健二)等、深刻劇のヒロインが当たり役。24年に時代劇部の移り、尾上松之助の相手役に。20年後半には次第に脇役に落ち、32年に退社。34年稲田春子の名で日活多摩川の大部屋に、57年、流転の末、青森県で駄菓子屋の女房になったとある。映画女優となったが、トーキーの波に乗り遅れたスターの一人で、映画界を去った後は、郷里黒石に帰り、ひっそりと暮らしたのであろう。Wiekpedia によれば青森県浅虫で88歳で亡くなったとある。1989年だからつい最近のことである。

 旧姓は鈴木、よくある名だが、黒石藩家老も勤めた鈴木家(前のブログに載せた図、西門近くに鈴木家がある)に連なるのかもしれない。維新後、多くの士族は窮乏を極め、北海道に移住した。春子一家もついには、故郷を離れ、北海道礼文島に一家で移住することになったのだろう。その後、澤村という伴侶も得て、東京で暮らすことになった。同郷の小山内薫(父が弘前出身)のつてもあって既婚であったが、映画女優となったのであろう。

沢村春子(明治34年1月10日生まれ)
 青森大観 大正15年 コマ番号24

日活京都撮影所の沢村春子と言えば、苟もキネマファンで知らないものがあるまい。然し、その春子が黒石町出身だという事に至っては知っているものは稀れ。尤も春子の父親は明治41年頃黒石町から北海道礼文島尺忍村へ転居しているので、戸籍上ではもちろん北海道出身となっている様ではあるが。
春子の父は黒石町大字乙徳兵衛町で鈴木某(礼八?解読不明)といった。母は南郡中郷村大字袋井というよりも黒石下川原と称する部落のものであるから、春子は立派な黒石町出身なのである。現に黒石尋常小学校に二年ばかり入学したのだから。
春子の沢村姓を名乗ったのは良縁の沢村某(不明)という人に嫁いだからである。現在もやはり夫君と京都市上京区大将軍一条通り坂田町十番地に真新しい表札に本名其のままの沢村春子と記して住居している。
ところで春子のキネマ界に入ったのは、大正九年東京市外蒲田に小山内薫氏が映画研究所を設立した。当時始めて研究生として入学したのである。???研究所で学んだ連中には鈴木伝一、南光明、根津新、奈良真養等がある。その後、大正十二年一月、日活改革の??、春子は松竹を去って、日活に入社した。そして日活での処女作品「白痴の娘」に主演して一躍スターとして重用される事になった。
東京大震災後、日活会社は、東京撮影所を京都に併合した時、松之助に嘱望されて、遂に剣劇専属となり今日に及んでいる。以下略。


 デジタルライブラリーは解像度が低く、拡大しても判読できない。元本が弘前市立図書館にあるので、調べればもう少し、判読できよう。