2015年9月2日水曜日

津軽キリシタン処刑地、四ツ堰

弘前分間真図(文化3年 1806)

弘前大絵図(寛政12年、1800)

弘前分間真図(若党町付近)

 江戸初期、慶長年間に、大阪、京都のキリシタン71名が津軽に流された。いわゆる“慶長19年の大追放”と呼ばれるもので、姫路の宇喜田秀家の一族である宇喜田休閑(ヨハネ休閑)とその息子三人などが、京都から日本海沿いに船で進み、鯵ヶ沢に上陸した。居住地については、弘前市近郊の鬼沢村、板柳付近、外ヶ浜、十三湖付近などが種々の仮説があり、はっきりしていない。

 幕府によるキリシタン弾圧は次第に厳しくなり、元和三年(1617)に、高岡(弘前)で二人の流刑キリシタンと三人の信者が、布教活動をしたかどで捕らえられた。捕らえられた流刑キリシタンは、マチャス長庵、彼は医者で、彼は少年期に京都神学校で学んだ熱心な信徒であった。他には長庵によって信徒となった隣家のレオ土手とその妻マリア、そして京都の人、流刑人レオ重助と鍛冶屋のミカエル仁兵衛である。さらにはマチュス長庵の妻、アンナも同罪で処分されることになった。棄教すれば許すとされたが、誰ひとり棄教するものはおらず、すべて見せしめのために火刑に処されることとなった。

 元和三年八月四日、六人は牢から引き出され、駄馬に乗り、町の繁華街を引き廻しの上、刑場で火刑に処された。“刑場は広ツ場で、六本の柱が立ててあり、役人たちはその柱に彼ら六人を縛りつけた。同行してきた信者と未信者とをその場から出して、早速火をかけた。余る早く焼けてしまわないで、助助に焙られて死ぬようにと薪を用意してあった。彼らの殉教はロレンショ、聖ウインセンショの殉教の様で午後二時から四時までに及んだ。その壮烈きわまる光景を親しく自分の目で打ち眺めた未信者たちは、腹の底から感動した人間といわんよりは、むしろ神霊でもあるが如く、合掌礼拝した。(イエズス会年報。”津軽に切支丹史()、永田冨智)“。

 これをみると津軽のキリシタンは引廻しの上、処刑されたことになり、その処刑場は後の弘前藩取上処刑場とは違った場所にあった。見せしめのために百石町で処刑されたという説もあるが、元和年間、すでに町割りがされ、百石町付近には処刑できるような広場はなかったと思われ、郷土史家、松野武雄さんの“紺屋町の通称、四ツ堰付近”という説が有力である。この四ツ堰というのがどこか長い間、わからなかったが、文化3年(1806)の弘前分間真図に紺屋町、織座の東の堰にこの名がついているのが、昨日、本を読んでいてわかった。四つの堰が並行して流れ、その名の通り、四つの堰がある。同じく、寛政12年(1800)の弘前大絵図分間にも同じ四つの堰が描かれている。現在の地図をみると四つには分かれていないが、用水路が栄町からきれぎれに宮園方向に走っており、これが通称、四ツ堰であろうか。明治二年弘前絵図では四ツ堰は完全になくなっている。“大久保堰と釜萢堰”のコメントで匿名さんが、明治二年弘前絵図で岩木川に沿った水路が見えるが、これは長次郎堰ということを指摘いただいた。四ツ堰はこの長次郎堰のさらに東、若党町の西外れに、今の西堀から北に向かって流れていたと思われる。

 松野武雄著“津軽の切支丹”(切支丹風土記、1960)はまだ未見で、どういった根拠でここを処刑地としたのか不明であるが、処刑された元和三年(1617)では、まだ樋ノ口川の留め切りは行われておらず(天和二年、1682)、駒越川と樋ノ口川は岩木川から分離後に、紺屋町の北で再び一本となっていた。当然、紺屋町には町割りがなされ、京都から多くの織職人が住んでいたので、処刑場が町中にあるわけではなく、そうすると紺屋町の北、駒越川と樋ノ口川が一本化する三角地帯があやしい。岩木川の改造後は、この部分は四ツ堰の西となる。

 岩木川の走行も変わっているため、場所を同定するのは、不可能と思うが、もう少し、他の色々な絵図を参考に、検討したい。今回は、四ツ堰の場所がわかったというだけである。

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