2016年6月13日月曜日

ブラタモリ in 弘前  part2(妄想)



南溜池 唐金橋は風光明媚な場所であった




山田良政、純三郎の碑(貞昌寺)

2. 南溜池
 木村産業研究所から100mほど歩くと、どうってことない橋が現れる。名前を“唐金橋という。「ここからの眺めで何か変だと思われませんか」、タモリさん「普通の川のようですが、狭くて深いですね。いや、よく見ると左手の住宅地がかなりの広い範囲で下がっています。こんな海からは慣れたところには河原や扇状地はないですよね。あ、わかりました。ここは池か何かあったところでしょう」、「ご明察です。ここは弘前藩の時代には溜池があったところです。明治二年ころの絵図で確認しましょう。この木村静幽という名があるところが先ほど見た木村産業研究所です」、タモリさん「木村さんと親戚なんですか」、「はい、この方のお孫さんが前川さんに設計を依頼したのです」、タモリさん「この溜池は何の目的で作ったのでしょうか」、「もともとは城の防衛用だったようですが、次第に景勝の地になったり、ここで侍たちが水泳の練習をしたようです。」、タモリさん「市内にあるちょっとしたプールのようなものですね」

解説: 弘前藩の二代藩主、津軽信枚が慶長15年(1610年)に弘前城の南側の防御として作られた溜池である。有事の際には土居を破り、土淵川を結び、防御線とすることを目的とされ、藩士の水練の場としても用いられた。景勝の地としても住民に愛されていたが、幕末になると荒れ果て、明治になると開墾が進められ、小作人を雇い学校の「学田」となった。その後、次第に住宅地となっていった。


3.   山田良政、純三郎の碑(貞昌寺)
 唐金橋を渡って、まっすぐ行くと、大きなお寺が見えてきます。タモリさん「ここらは寺町ですか」、「弘前には二つの大きな寺町があります。曹洞宗の33の寺は、ここから近い禅林街にかたまっていますが、それ以外の宗派の寺がこの新寺町に集まっています」。貞昌寺内に入る。入って左手の二つの碑に案内します。「タモリさん。ここの二つの碑がありますが、碑文を読んでみてください」、タモリさん「ええっと。右の碑には山田良政と孫文の名がありますね。左の碑には山田純三郎と蒋介石の名がありますね」、「山田良政は孫文の起こした中国革命で最初に亡くなった外国人で、その死を惜しみここに碑を作ったわけです。」、タモリさん「へえ、弘前の方で中国革命に協力した人物がいたんですね」、「先ほど訪れた木村産業研究所のすぐそばに、山田晧蔵という士族がいて、その長男が山田良政です。」、タモリさん「隣の山田純三郎というのは弟さんですか」、「はい、山田家の三男で兄の遺志をついで孫文の秘書のような仕事をしていました。」、タモリさん「なぜ蒋介石の名があるんですか」、「蒋介石とは友人で、中国革命では純三郎が先輩になります。ついでにいうと山田家の次男と四男はアメリカに渡ります。4人の男の子はすべて海外に行くことになります。」

貞昌寺から100mくらい離れた最勝院に向かう。五重塔を見ながら、さらに奥にある墓所に一行は向かう。




解説:山田良政(1868-1900)は、弘前藩士、山田晧蔵の長男として弘前市在府町に生まれ、東奥義塾から青森師範学校、水産伝習所(東京海洋大学)を卒業後に、昆布会社に勤務し、上海で働く。中国語ができたため日清戦争では通訳として従軍した。東京で孫文と知り合い、その革命思想に共感し、南京同文学校の教授として再度中国に渡る。1900年に孫文は2回目の革命を起こそうとするが、決起直前となり、日本政府の協力が得られず、良政はその中止を部隊に知らせに行くが、政府軍に捕らえられ、処刑される(恵州起義)。孫文は1913年に東京の谷中全生庵に碑を建設、さらに1919年に弘前市貞昌寺に碑を作った。山田純三郎(1876-1960)は、兄同様に東奥義塾で学び、東亜同文書院で中国語を学んだ後、兄の遺志を受け継ぎ、孫文の活動に協力する。孫文の秘書のような存在で、実際に中国革命に参加した。孫文死後は、新聞社を経営するなど、日本の敗戦まで上海で過ごし、すべての在留邦人の帰国を待って、帰国し、ひっそりと亡くなった。




0 件のコメント: