2020年9月13日日曜日

黒沢清監督 ベネチア映画祭、銀獅子賞受賞





 黒沢清監督が、念願のベネチア映画祭、監督賞である“銀獅子賞”を「スパイの妻」で受賞した。これまで何度も挑戦し、期待もされていたが、今回はあまり期待もされなかった作品が受賞したため、本人も含めて驚いた人も多いに違いない。作品についてはまだ日本で未公開のため、わからないが、予告編を見る限り、近作「散歩する侵略者」のような風変わりな、ある意味、黒沢監督的なものではなく、どちらかというと普通の作品のようで、それだけにかえって受賞が唐突な感じがした。

 黒沢清監督は、六甲学院の31期で、私の一期先輩である。そうしたこともあり、昔から作品の多くを見てきたが、娯楽映画としては正直にいえばあまり面白くない。一番、最近見た「旅のおわり世界のはじまり」も主演の前田敦子の歯がゆい行動、危険な海外にいるのになんとこの日本人女性は無防備なのかということばかり気になる映画であった。それでも見終わった半年以上経つが、結構シーンは覚えている。昔は同姓の黒澤明監督の影に隠れて、気の毒な点もあったが、1997年の「CURE」あたりから海外にも熱狂的なファンがいる映画監督となった。日本映画が全く人気なく、細々とポルノ映画でなんとか凌いでいた苦しい時期を体験した監督の一人であり、当時は、まともな映画がほとんど製作されず、苦しい時期であったのだろう。

 我々32期からすれば、31期は一年先輩で、特にサッカー部の先輩は、試合も一緒に出るし、もちろん練習も同じなので、親しかった。それと関係して、一期先輩にも知人は多かったが、それでも黒沢清監督のことは全く記憶にない。10年以上前だったが、週刊誌“アエラ”の取材で、同窓会に行く恐怖を語っていた。何でも、しばらくぶりに同窓会に行くことにしたが、行っても誰一人自分のことを知らず、話しかけられなかったらどうしようというもので、実際は、同級生のみんな、監督の最近の活躍を褒めてもらい杞憂に終わった。あまり在学中は目立たなかった生徒だったのだろう。ただ私は、黒沢監督の最初の作品については、記憶している。当時、六甲学院では年に三回ほど、全生徒による映画鑑賞会が講堂であった。受験校で、よくのんびりと映画鑑賞などしていたなあと今では思うが、結構、そうしたことで映画好きになった生徒も多い。27期の大森一樹さん、38期の市野龍一さんも映画監督だし、36期の尾崎将也さんも多くのテレビでの脚本を書き、最近では映画の監督もしている。また同級生の古澤真くんも宝塚で「エリザベート」のプロデユーサーをしている。学校での映画上映に刺激されたのか、当時、文化祭では高校二年生が自主映画を作る習わしがあった。私が文化祭で見た黒沢清監督の最初の作品は前衛的、空想的な映画で、まず出演していた女の子をどこから調達したのか、すごく気になった。当時、学校は山の上にあり、社会からほぼ孤立した状態で、日常的に同世代の女子と接することはなかった。私に至っては、6年間、姉、親類以外の女性と喋ったこともなかった。この映画の女性もそれほど綺麗な子ではなかったが(失礼)、どのように出演交渉したのか、不思議であった。内容はすっかり忘れたが、かなり本格的な作品で、驚いた記憶があり、次の年、我々の学年も映画を作る際、とてもこうしたまともな作品は作れないと、当時流行っていたブルース・リーの空手映画のパロディーを作ることになった。大谷光瑞の別荘地、二楽荘の跡地で、同級生のAくん、Iくんなどが中心となって、何日かロケをして作った経験は今でも楽しい思い出である。その後、卒業30年目の記念同窓会で再演され、好評であった。

 今回の黒沢清監督の「スパイの女」は、地元、神戸を舞台に作った初めての作品で、そのインタビューでは、新開地などのなくなった映画館のことが語られているが、多分、僕らの世代で、最も頻繁に行った映画館は、神戸三宮近くのビッグ映劇で、二本立ての旧作がかけられた名画座で、「イージーライダー」、「いちご白書」などニューシネマ系の作品はほとんどここで見た。バス、電車が定期券で乗れたので、日曜日に尼崎から神戸に行き、映画を見るのは、それほど金がかからなかった。もしかして、ビッグ映劇の館内には黒沢さんもいたかもしれない。

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