これまで3回ほど、来年度NHKの朝ドラの主人公のモデル、鈴木雅の出身校について書いた。鈴木雅については、横浜のフェリス女学院を卒業したという資料が多いが、これは間違いで共立女学校(現在の横浜共立学園)を修了しているのではないかと、いろいろな文献を引用して説明してきた。
鈴木雅フェリス女学院を卒業したという証拠は、フェリス側の資料には存在せず、学校の記念誌も含めて公式の場ではそうしたことを発言しておらず、高橋政子著、「日本近代看護の夜明け」の中にある鈴木雅の孫の証言によるものしかない。さらに古い資料を探すと、明治30年発行、福良虎雄編「女子の職業 新撰百種:第三編」に“尚、生徒の取締として鈴木マサ子と云える婦人を頼みたり。此のマサ子は横濱フェリス女学校の卒業生にて嘗て某陸軍大佐の細君となり、英語等にも熟達せる故、彼のウェッチ嬢の通便として雇われたるがーー”となっており、また医学史研究会による「医学史研究」(1976)では“彼女(鈴木まさ)は一期生の中では一番年長で、かつて横浜のフェリス女学校を卒業して、――”となっていて、他にもフェリス卒業としている論文は多いが、根拠は示されていない。
一方、共立学園では、60周年誌では同級生の寄稿文の中で、一期生の中に加藤おまさ(鈴木雅)の名前が出ており、150周年誌でも同校を修了したとしていて、学校の公式資料でも鈴木雅は同校を修了したとしている。
こうした中、今回、ほぼ決定的な資料が見つかったので報告する。「明治百話」という本で、篠田鉱造というジャーナリストが昭和6年に出版した。名著として今でも岩波文庫に入っていて読むことができる。当時の人から明治の思い出話を集めたもので、現在でも資料としても十分に使えるものである。ただ欠点としては、誰が話したかを明示していないことが挙げられが、今回、見つけたものは文面を読むと、明らかに今回、NHKの朝ドラのもう1人の主人公、大関和の話とわかる。彼女は昭和7年に亡くなったので、著者は直接、大関から話を聞いたのは間違いない。大関の話では、鈴木雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業したと断言している。横浜二百十二番館とは横浜共立女学校のことである。鈴木自身、自分が行っていた学校を“共立女学校”とは人には言わず、“横浜二百十二番館の学校”と言っていたのかもしれない。普通、二百十二番館の学校と言っても、すぐに横浜共立女学校を思いつくことはなく、孫、親類もほぼ隣にあるフェリス女学院のことだと勘違いしたのだろう。以下、省略して一部引用する。
全文については、国立国会図書館デジタルコレクションで見られるので確認して欲しい。
日本看護婦の嚆矢
明治二十年十一月英国セントマス病院のナイチンゲル看護婦学校卒業の、ミス・アグネス・ヴィッチ女史が帝大第一病院で、看護婦学を教授すると聞き、同院の三宅秀先生におすがりして、大学の見習い看護婦に採用していただき、この聴講生の員数に加わりました。鈴木雅子さんの通訳でした。月謝が五十銭。この鈴木雅子さんと申すのは、陸軍中佐の未亡人で、横浜二百十二番館の女学校を卒業した、英語の達者な女性でした。 略
私の役目はお手術後のお手当です。幸い夫人のひとかたならぬ御寵愛をこうもり、大関大関と仰つけられ、実に身に余る面目を施し、神様の御加護の厚きに感謝しました。
こうして細かい誤りをしつこく探求するのは、故人にとって自分の出た学校を間違って伝えられることは嫌であろうと思うし、横浜共立女学校の奇跡のクラスと呼んでもよい一期生の影響を鈴木雅は強く受けていると考えるからである。このクラスには、津田梅子と一緒に日本で始めた海外留学をした上田悌子、吉益亮子がいた。さらにその後、アメリカに留学して女医となった、須藤かく、菱川やす、西田けい(岡見京)の3名がいる。そして櫻井女塾を開設した櫻井ちかや、慈善運動に活躍した二宮わか、渡辺かねもいて、本当に奇跡のようなクラスであった。ここで想像して欲しいのは、今でも自分の学校、クラスメートの2名がアメリカ帰り、そして3名がアメリカで医者になると言って留学し、さらに学校を作った同級生もいるという状況である。岡見は日本では五番目、菱川は八番目、須藤は五十五番目と、日本でもごくわずかな女医のうち、このクラスだけで三人もいるのもすごいし、日本女性で最初にアメリカで留学、生活した五人のうち2名が同じクラスでいるのも、若い頃から海外の話を聞いたのは違いない。
日本で始めて看護師という礎を築いた鈴木雅を語る上では、どうしても雅が受けた教育環境を知っておかなければ理解しにくい。怖いと思う深い崖でも、皆が次々と飛び越えるのを見ると、勇気が出る。雅にしても夫の陸軍少佐、鈴木良光の死後、確かに生活は苦しかったであろうが、階級からそこそこの軍人恩給が出ていたはずで、生活面だけから子供二人がいるにも関わらず、28歳(1886)から看護婦養成所に入学する動機は薄い。岡見がアメリカに行き、女子医大に入学したのが1885年、同じく菱川安が留学したのが1885年、須藤かくと阿部はなが渡米したのが1890年、こうした同級生の動きも影響したのであろうか。