2007年3月14日水曜日

本多庸一1


本多庸一(1848-1912)は、内村鑑三らとともに明治を代表するキリスト教指導者である。友人の押川方義は本多のことを「彼はキリスト教化された武士といわれるが、むしろ武士道化されたクリスチャンである」としている。
津軽藩 本多東作の長男として、弘前市在府町3番地で生まれた。名の通り徳川家康譜代の武士の流れをくみ、その祖先は家康の養女満天姫の輿入れとともに弘前にやってきた。父は300石の禄を食む上級武士で、庸一も幼いころから大変頭の良い子で、将来を期待されていた。幕末には津軽藩も勤王派と佐幕派に分かれ、激しい争いがあったが、庸一は当然佐幕派の一員として活動した。土壇場になって津軽藩は勤王派になったため、庸一は死を覚悟して脱藩したが、その才を惜しまれ、罪を許された。
明治3年には藩の命令で横浜に英語を学びにいった。ここでは庸一は宣教師ブラウン婦人の塾に入った。当然、英語の習得を目的としており、キリスト教には関心はなかった。ブラウン婦人の人格や生活規範に触れるようになると、次第にその母体になるキリスト教にも興味をもつようになり、明治5年に洗礼を受け、信者になった。武士からキリスト教徒への転身である。
かって太平洋戦争後に多くの軍人は熱心なキリスト教徒になった。例えば真珠湾攻撃の航空隊指揮官の淵田中佐は戦後、熱心なキリスト教徒となり生涯を捧げた。死を覚悟した軍人や武士が偶然生還した場合、キリスト教というのは魂を虜にする磁性をもっているのかもしれない。本多の場合、明治維新による武士階級の崩壊も原因だったかもしれない。
切支丹禁止令がとかれたのは明治6年であると思うと、本多の入信は親のみならず、津軽の人たちにも相当ショックであったろうし、本多自身も勇気がいっただろう。
後に津軽の名物として牧師が挙げられるほど、多くの牧師を輩出した。「キリスト教はいかんが、本多の耶蘇教ならいい」、「本多の耶蘇なら本物だろう」といって、多くの信者が生まれたというエピソードがある。

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