2007年3月29日木曜日

陸羯南2


青森新聞社の編集長になった陸だったが、県の政治をするどく批判したため、明治憲法下の言論統制法「讒謗(ざんぼう)律」にふれて罰金を受けることになる。嫌気がさし、新聞社を辞めた陸は25歳の時(明治14年)に上京して太政官文書局でフランス語を訳す仕事についた。陸がどこでフランス語を覚えたが不明である。ところがこの役人仕事も長続きせず、7年後には辞めて、新聞「日本」を作った。日本という新聞は、どこの政党にも組みしないし、営利を目的ともしない、陸個人の考えが反映された新聞であった。その趣旨には国民精神の発露を挙げているが、その当時の不平条約に対する欧化政策を激しく批判したものであった。現在でも中国やアフリカ諸国では汚職が蔓延し、国の発達を阻害しているが、それに比べ明治政府は武士の精神を受け継ぎ、汚職は少ない方と思われる。それでも権力を握る人間には不正が出てくる。陸はそれらの不正を激しく批判した。全文振り仮名抜きの漢文口調で、社会面などの記事も一切なく、発行部数も少なかった。それでも青年層を含む知識人に歓迎され、かっての朝日ジャーナルのようの存在だったのであろう。あまり痛烈に批判したため、89年から96年までの間に発行停止が32回、日数にして230日に達している。反骨ジャーナリストの面目躍如である。
この新聞「日本」は明治39年に経営難で時事新報系になって陸は社長を退く。福本日南、三宅雪嶺、長谷川如是閑など明治、大正を代表するジャーナリストも同時に退社した。陸のまわりには、その人格によるのか、あるいは人を見る目があるのか、優秀な人材が集まり、その才能を開花させる。正岡子規もそのひとりである。陸をあたかも慈父のごとく接し、陸も子規の俳句改革には異議を唱えていたが、本当に暖かく支援した。子規の墓碑には「日本新聞の社員たり」の一節が記されているだけであり、陸への強い尊敬が読み取れる。

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