2007年7月27日金曜日

山田兄弟5


山田良政は、恵州の戦いで戦死したことはすでに述べた。良政と関係のあるひとについて書こう。
妻とし子(敏子?)とは実はこの最後の中国行きの直前に結婚した。とし子とはわずか一週間しか夫と生活を供にしなかったが、彼女は弘前や函館の女学校で教えながら、夫の死後も節を守り、昭和36年にクリスチャンとしての長く清らかな生を終えた。とし子という女性はどんなひとだったが全く不明で今後調べたいが、どんな思いで良政亡き後の人生を送ったのであろうか。純三郎の妻といい、革命に捧げた人たちの妻たちの苦労は大変なものであっただろう。良政がクリスチャンだったかはわからない。
またこの恵州の戦いに参加し、三多祝の乱戦で九死に一生を得たのは、良政に師事した弘前の櫛引武四郎(政治家工藤行幹のおい、津軽藩の儒者櫛引錯斎の孫にあたるか)で、彼は後に大正2年の第二革命で南京で戦死した。この櫛引武四郎についても、ほとんど記録は残っておらず、歴史の闇に埋もれている。こういった歴史にも残らず、中国革命に命を落とした日本人はたくさんいたのであろう。
菊池良一についても調べているが、あまり記録にでてこない。偉大な政治家、菊池九郎の長男として生まれ、姉いねは理学博士で日本天文学のパイオニアである一戸直蔵に嫁いだ。長男良一は京都帝国大学卒業後、一時日支商事会社を興して、その社長になっていたが、のちに新聞記者、弁護士などとなった。大正4年には青森県郡部選挙の代議士となり、政界に進出した。そして大正6年、9年の総選挙に当選した。良一の娘節子は婿をとり、その子昭一は東京都小平市に在住とされている。
山田兄弟の活躍した時代は、とくに後半は青森県の出身の大物が枯渇してきた時期でもあった。陸羯南、珍田捨巳、一戸兵衛などジャーナリスト、外交、陸軍を代表し、影響をもった郷土の先輩や、その友人後藤新平、犬養毅などにより、山田兄弟も明治、大正時代はずいぶんと助けられた。昭和に入ると軍部が影響を持つようになると同時に、上記のような常識人が亡くなったため、大局的な判断をすることができなくなった。日中戦争では純三郎のような国民党との強固なコネクションをもつ人物をうまく使えば、和平活動などの結果も大きく違ったと思われる。純三郎の苦悩は大きかった。少なくとも珍田、一戸など政府首脳に位置するひとがそばにいれば、もう少し賢明な方法がとられたであろうと思われ、残念である。その後の未曾有宇の悲劇も回避できたかもしれない。
「青森県の101人」 北の街社 昭和63年 稲葉英夫 を参考にした。

2007年7月26日木曜日

医療安全対策



今年の4月から医療法の改正に伴い、医療安全対策が各診療所に求められるようになりました。7月からは移行期間も過ぎ、院内での実施が必要です。内容は多岐に及びますが、医療機器の点検やヒヤリ、ハット事例の報告、感染対策の講習と実施などが盛り込まれています。歯科医師会の取り組みは遅く、先週くらいに書類が来て、いきなり実施するようにというものでした。いつも思うのですが、本当に対応が遅いと思います。
従来、矯正歯科では診療にほとんど観血処置(歯を抜いたり、神経をとったりなど)がないため、あまり感染対策はなされていませんでした。大学病院の矯正歯科ですら、いまだに治療に用いるプライヤーなど使い回しにしているところもあるようです。私のいた鹿児島大学では開院当初からすべての矯正器具を滅菌して使用していました。現在ではこのやり方も多数のところでやられていますが、30年前では、プライヤーをラックにいれてアルコール綿で拭くだけ、あるいは薬液に浸けるだけというところがほとんどでした。
当院でも必要なプライヤーを多数揃え、すべて滅菌の上、使用していましたが、グローブに関しては実はあまり使っていませんでした。ひとつは観血処置がないため血液を介しての院内感染はほとんどないこと、また事故として考えられるのはワイヤーなどによる針刺し事故でグローブでは防げないこと、細かな操作が難しいことなどで、これまで全面的な使用はためらっていました。この医療法の改正に伴い、当院でも遅ればせながら全面的にグローブの使用に踏み切りました。
グローブは大きく分けて、ラテックス、合成ゴム、プラスティックに分かれます。ラテックスが最も手になじみ、一般的ですが、術者のラテックスアレルギーの問題や子どもへのラテックスの感作が危惧されています。国立成育センターではラテックスは使っていないようですし、弘前大学病院でも外来を見てみるとプラスティックが主流になっています。当方でも、それでラテックス外のものを探していますが、なかなかいいものはありません。また矯正治療では金属の結紮線を使うことが多く、操作中にグローブに引っかかってしまいます。今のところプラスティックのものが矯正治療には向いているように思われ、製品の評価を行っています。
日本ではあまり話題になっていませんが、海外では歯科ユニットに使われる水質汚染が問題になっています。すなわち、ユニット内の配管に付着したバクテリア層のため、便所の水くらいに汚染されているというものです。欧米では細菌数などの規定がありますが、日本では水道水の塩素処理などでそれほど問題がないようです。最近のユニットではユニット内の水質を消毒するシステムがあるようですが、最も進んだやり方は下の写真のアメリカのエーディック社のユニットと思います。このユニットは2Lのボトルに入れた薬剤でユニット中の水質を消毒するもので、当然患者に使われる水も消毒済みのものをボトルに入れて使えます。タービン、うがい、シリンジなど使われる水はすべてこのボトルから供給できます。日本でもタカラという会社のユニットもこのシステムを使えるようですが、かなり補助的なものです(実はタカラはこのエーディックをまねたようです)。
いずれにしても国際規格に則った医療安全システムを従業員一同協力して完備したいと思います。

2007年7月19日木曜日

三橋美智也とアルファー波



三橋美智也といっても若いひとにはピンこないと思います。私たちの世代でも「怪傑ハリマオ」の主題歌を歌ったひとという認識しかありません。若いひとにはむしろお菓子の「カール」のCMソングを歌っているひとと言った方がよいかもしれません。
最近、怪傑ハリマオを偶然聞く機会があり、三橋美智也おもしろそうと思い、買ったのが上のCDです。東京のタワーレコードなどを見てみたのですが売っておらず、地元弘前の小さなレコード屋の店頭にワゴン販売されていました。さっそく帰って聞いてみたのですが、さすがに古くさく、しまったと思いましたが、一応は習慣でIpodに入れておきました。後日、散歩しながら聞いていると、これがすごい。高音が脳に響き渡ります。もともとBang&Olufsenのイヤフォーンはへたなスピーカより定位がよく、ほぼ両耳の間の頭の中で音楽が流れますが、ミッチーの高音はそれがより上方で鳴っています。さらに口蓋からのどの奥がバイブレーションするような感覚もあり、すごいと思いました。以前、ユーミンの声はモンゴルのホーミーのように可聴できないアルファー波がたくさん入っているから心地よいというテレビ番組がありましたが、ミッチーの声はまさしくそうです。定位のいいイヤフォーンで試してみてください。スピーカーでは味わえない、脳の中で(やや上の方)音楽が鳴っている実感が味わえると思います。
このアルバムの中では星屑の街(ゴスペラーズではありません)は、なかなかしぶい。

両手をまわして帰ろう揺れながら
涙の中をたったひとりで

聞いているうちにこれを主題歌でアキ・カウリマスキ監督(フィンランド)が映画でも作ってくれないかと思いました。この監督の映画音楽はいつも変な曲が選択されていて、「過去のない男」でも列車のシーンでいきなり日本の曲が流れていていました。きっとカウリマスキ監督も三橋美智也のファンになると思います。彼の映画にぴったりです。「浮き雲」と同様、この映画も本当に何度みても笑わせます。

2007年7月14日土曜日

平和祈念像のモデル?


長崎平和公園のシンボルである平和祈念像のモデルについては、母方の親類間では奇妙な伝説がある。この像は、彫刻家で有名な北村西望先生が原爆犠牲者の冥福を祈り、1955年に建てられたものである。建設当時、日本ではプロレスが人気であったため、力道山をモデルにしたという説もあった。それくらいこの像のモデルは当時の日本人離れした顔、身体であったため、このような説も出たのであろう。
私のおじは、長谷川茂雄といい、もう20年くらい前に亡くなった。関東のどこかの生まれで、東京高等師範を卒業後の昭和4年に脇町中学に赴任した。どうして四国のこんな僻地に来たかというと、東京で好きなひとがいて、その人が病気療養のため松山に引っ越したため、出来るだけ近い赴任地ということで徳島県に来たようだ(そんなに近いとは思わないが)。大学時代ラグビーをやっていたため、脇町中学でもラグビーを指導し、脇中を何度も全国大会に出場させ、活躍した。四国に初めてラグビーを紹介したとして、地元脇町ではいまでもラグビー饅頭や脇町高校には「四国ラグビー発祥の地」と刻まれた記念碑があるほどである。
このおじさんは若い頃から長髪で、色黒で彫りが深く、子どもの頃みた記憶でも日本人離れして容姿であった。若い頃はさらにかっこよく、脇町に赴任当時は、町の若い女子はほとんど熱を上げ、憧れていたという。タイロン パワーのような感じである。当時、化粧品などの雑貨を扱っていた祖父が惚れ込み、娘のむことして拝み倒し、おばさんと結婚したようである。町の若い女子には相当嫉妬されたようである。
このおじさんがラグビーのチームを引き連れて国体(九州?)に出場した時に、北村先生から声を掛けられ、脇中の教え子で、スポーツ万能「セントウ」こと、吉田廣一さんと一緒に東京の北村先生の自宅を訪問した。セントウさんは脇町では当時知らないひとがいないくらい柔道、レスリングで活躍したひとで、その体は大きく、筋骨隆々としていたという。子どもの頃から背が高く、並ぶといつも先頭、スポーツをやらせば何でも先頭なのでこんなあだながついたようだ。
母方の伝説では、北村先生はおじさんの顔とセントウさんの体を合体させて平和祈念像を造ったという。かなり信憑性はあやしいが、最新のWikipediaでもセントウさんの紹介があり(前はなかったと思う)、徳島県、とりわけ脇町ではこの伝説はわりと信じられているようである。確かにおじさんを知っているひとからみれば祈念像の顔、特に髪型は長谷川のおじさんそのものである。
北村先生の家には座敷に風呂があり、おじさんは驚いたといっていたようで、これが事実なら信憑性もあるのでは。
ちなみにこのおじさんは、高校ラグビーなどで義務化されているヘッドキャップを発明した。脳震盪などの事故を防ぐため、ラグビーメーカのウシトラと協力して作ったようです。

2007年7月12日木曜日

若党町


今回は弘前城の北側にある若党町を紹介します。写真のようにサワラの生垣と黒塗りの板壁で囲まれた家並みが続き、まるで江戸時代にタイムスリップしたような街並です。サワラの生垣は外からは中は見えず、中からは外が見えることから敵からの防御用となり、またその実は非常食になるようです。若党町、馬喰町、小人町は総称して仲町と呼ばれ、現在は「仲町伝統的建造物群保存地区」となり、国の伝統的建造物保存地区にもなっています。
比較的、早い時期に町割りされたところで、中級、下級武士が住んでいたところのようです。北の押さえとして亀甲門があり、その門を出たところが亀甲町で、その裏が若党町となります。弘前城を中心(正確には本丸)として、北東の鬼門には八幡神社が、南西の裏鬼門には長勝寺が、全く等距離におかれ、北、南、西には下級、中級武士が、東には上級武士の居宅があったようです。さらに言うと、弘前城自体が岩木山の南東にあり、いい位置にあると思います。昔の町割りは、かなり厳密に方位の考えで造られたようです。
この仲町には旧伊東家、旧岩田家、旧梅田家などの武家屋敷が復元修理され。観光客に開放されています。なかなかいい家ですが、台所の暗さにはびっくりします。昔の主婦は大変だったと思います。伊東家に以前行った時には作家の今東光、日出海兄弟が住んでいた部屋という表示がありましたが、いまはなくなっています。今兄弟の母清美の実家は、医師で有名な伊東家の出身で、元長町にあったこの家にも今兄弟はよく遊びに行ったのでしょう。ちなみにこの伊東家の隣の元大工町には佐藤愛子、佐藤ハチロウの父である佐藤紅緑が住んでいて、今兄弟もこの佐藤紅緑のいろんな話を母親の実家では聞かされたようです。後の作家活動を始めたきっかけになったかもしれません。
この界隈は立派な家が多く、散歩にいく度にいったいどういう人が住むのか想像してしまいます。映画「青い山脈」に出てくるような、田舎にいながらも標準語をしゃべるような女学生が、いまは年配になっているかもしれませんが、いるようなムードがあります。夕暮れ時、あるいは真冬の雪の積もった時なんか、本当に静かで美しいところです。できれば電柱はムードを壊すので、是非とも地中化してもらいたい。昭和50年ころの新聞記事で「風格のある町」として東の横綱に挙げられたことがきっかけでこの町の保存運動が起こったようですが、ぎりぎりだったと思います。壊すのは簡単ですが、残すのは本当に難しいと思います。

2007年7月4日水曜日

笹森順造4


米山に推されて青山学院の院長になったが、教師、生徒間との摩擦も多く、志半ばで辞めることになった。戦後初の選挙では東奥義塾の教え子の応援を受けて、トップ当選を果たした。以後連続4期(8年間)、ついで参議院に連続3期(16年間)当選して、政治家の道を歩んだ。その間、片山内閣の国務大臣として入閣し、復員庁総裁や賠償庁長官などを勤めた。戦後の混乱したこの時期、復員とくにソビエトに強制移送された57万人の日本人の復員は難航を極めたが、粘り強く交渉した。また米国での生活や語学力を生かして、アメリカとの交渉に臨み、賠償請求権の放棄など、敗戦により苦しい状況の日本を助けた。
剣の達人で、クリスチャン、酒もタバコもやらず、勤勉で実直な笹森は、朝早くには官邸に出勤し、夜遅くまで仕事をこなした。官邸の玄関番が笹森のこの謹厳な生活態度にいたく感激して、自分の孫の名付け親になってほしいと頼んだというエピソードがある。政治家は議場で議論すべきだとして、酒席への招待も根回しも一切断わり、地元からの嘆願も嫌った。後の首相となる三木武夫とは日本協同党以来の大親友であった。三木武夫夫人は笹森のことを「真面目なひとで、いかにも古武士という感じでしたが、人に優しくて幅広い考え方を持っていた。話しても暗さがなかった」と話している。私は親類が徳島県に多く、三木の元秘書を知っているが、そのひとの三木評と非常に似ており、性格的には気があったのであろう。
昭和39年の東京オリンピックの時には、デモンストレーションとして日本武道も公開されたが、笹森も日本剣道界の代表としてこれに参加して、小野派一刀流の極意を披露した。その年にもらった勲一等瑞宝章より、日本武道館の完成とともに、笹森には名誉でうれしかったであろう。
笹森は明治19年生まれで、武士の時代はとうに過ぎていたが、幼いころの剣術修行、厳格なキリスト教教育、弘前の風土などから色濃く、その精神には武士道のスピリットが流れていた。最後の武士と呼べよう。
私の通っていた学校(六甲学院)の創立者は武宮隼人というバリバリのイエズス会の神父で、その頃、全校生徒に対する朝礼は場合によっては数時間にも及び、生徒が気分が悪くなりばたばたと倒れても、訓話をやめなかったというエピソードがある。非常に厳しいひとで、悪いことは悪い、少しの悪いことも許さないという姿勢で、生徒からは反発もあったようだが、生徒には打ち解けてなんでも話すことから慕われた。笹森の話を書きながら、ふと武宮校長のことを思い出した。

弘前人物志、青森20世紀の群像(東奥日報社,2000)および剣道塾長 笹森順造と東奥義塾(山本甲一著、島津書房、2003)を参考にした。